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2021.01.18
ドイツ語
標準ドイツ語の発展と成立
世界中の話者が推定1憶人にものぼるドイツ語ですが、スイス、オーストリアを始め、ドイツ以外でも公用語としている国々があり、それぞれ方言があります。その一方で、標準語として、スイスにおける標準ドイツ語(das schweizerische Hochdeutsch)、オーストリアにおける標準ドイツ語(das österreichische Hochdeutsch)、そしてドイツにおける標準ドイツ語(bundesdeutsche Hochdeutsch)が存在し、複数の言語規範を持つ「複数中心地言語」(Plurizentrische Sprache)として数えられています。方言、標準語と、多種多様なドイツ語ですが、ドイツの標準ドイツ語はどのように発展、成立してきたのでしょうか。
1. ラテン語からドイツ語へ
書き言葉としての標準ドイツ語は、1800年前後に成立したとされています。ドイツは領邦国家の歴史が長く、国家統一が遅かったため、言語においても、各地方の方言が多く存在し、標準語の成立が遅れていました。他の欧州主要国、例えば、イギリスにおいては、ロンドンが14世紀に、フランスではパリが13世紀には政治経済の中心地として既に確立しており、それぞれの都市の言語が標準語の基盤を築いていました。また、中世ヨーロッパ社会においては、ラテン語が公用語かつ共通語、そして「神聖な言語」であり、公文書や学問用語などは全てラテン語が使用されており、ドイツ語は民衆語として扱われていました。しかし、カトリック教会の失墜や封建的農業社会の衰退と初期資本主義への転換による商業活動の拡大により、ドイツ語の必要性が高まり、14世紀以降は、ラテン語に変わり、ドイツ語で文章が記録され始めました(ドイツ文章語/Schriftsprache)。
2. マルティン・ルターの「共通ドイツ語」
標準ドイツ語の発展にとって最初の大きな転換期となるのは、宗教改革が起こった16世紀に遡ります。ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の宗教革命家、マルティン・ルター(1483-1546)が、ヘブライ語、古典ギリシア語で書かれた旧約・新約聖書をドイツ語訳に翻訳し、ドイツ語の統一化、標準化に大きく貢献しました。
標準ドイツ語の礎となっているのは、もともと、ルター以前から、ウィーン宮廷官房語の基礎となっている東上部ドイツ語、そしてマイセン官房語をはじめ、ザクセン選帝侯の支配領域で採用されていた東中部ドイツ語(テューリンゲン・オーバーザクセン語とも呼ばれている)です。これらは、今日では標準ドイツ語の基盤とされています。当時、文書語としての地位を徐々に確立し、ルターが聖書翻訳でも使用したため、ルタードイツ語とも名付けられています。このドイツ語は、ザクセン官房語を頼りに、万人が理解できる「共通ドイツ語」を使用したと、ルターは、自身の『卓上説教』内でも述べており、本格的なドイツ語の標準化、規範化はさらに時代が進む中で成立していきました。また同時代に起こった、グーテンベルクの印刷技術の発展や、農民戦争における一般大衆に向けた扇動文書の拡散もドイツ語の標準化において、重要な要因となったことも付け加えておきます。
3. 国語としてのドイツ語、ドイツ語の規範化
17世紀、30年戦争によって荒廃したドイツでは、フランスの経済制度、政治体制がモデルとして取り入られるのと同じく、上流階級は、好んでフランス語を取り入れたため、愛国心の強い貴族や知識層は、ドイツ語の衰退を憂慮して、国語協会(Sprachgesellschaften)を設立し、国語としてのドイツ語の育成、規範的文法、正書法、辞書の整備、そして外国語から国語を守るという理念を打ち立てました。18世紀に入ると、ゴットシェート(1700-1766)が『ドイツ語文法の基礎』の中で規範文法を示し、模範となって浸透していきました。
標準ドイツ語は、17、18世紀の文法家、詩人、作家や哲学者たちの尽力によって、文法面の規範化のみならず、学問語としても洗練されていき、19世紀初頭には一定の完成を果たしました。
このような成立の過程からもわかるように、標準ドイツ語は、口語の延長上に発展したのではなく、教養市民階級の理念とイデオロギーに基づいて整備、規範化されてきました。その影響で、現代ドイツ語においても、学問的・文学的書き言葉としての特徴が顕著であるといわれています。
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参考HP
参考文献
- 荻野蔵平/齋藤治之著 歴史言語学とドイツ語史 同学社 2015
- 須藤通/井出万秀著 ドイツ語史 社会・文化・メディアを背景として 2009
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