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2019.11.20
神田
KANDA⑨ 神田川も氾濫した 神田川と近代以前の治水事業
今年の日本は台風直撃を受け、東京近辺でも河川の氾濫や土砂崩れ、家屋の浸水が問題となり死者は少なくとも10名と数えられています。そもそも日本では古来より地震だけではなく水害も多く、治水事業は現代にも引き継がれている長年の課題でした。
もちろん、水害は日本だけの問題ではありませんね。これほど科学技術が発達したにも関わらず、水のそばで文明を発展させてきた私たち人間は、未だ水の流れを完全にコントロールすることは出来ていないのです。迷信の世界で水の魔物を恐れ、水の神様を崇拝する文化があることも納得できますね。
しかも、「神田川」は決して小さな川ではありません。流路延長24.6km、流域面積105.0km2と、東京都内を流れる中小河川としては最大規模です。水源は吉祥寺/井の頭池で、最終的には墨田川に合流する東京をほぼ横断する川です。江戸時代を通じで、江戸幕府と江戸の住人は神田川と何とか折り合いをつけて生きてきたと言えます。
日本の治水事業の歴史
まず古来日本の治水事業とはどのようなものだったか見てみましょう。
10世紀までの治水は、とにかく排水を促す堀を開削することと、杭などを打ち堤防と築くことでした。原始的ですが、着想するポイントは今も変わっていませんね。このころの治水事業は国家主導でしたが、11世紀になると地方に落ち着いた富裕な豪族や、下剋上の風潮の中、自治権を獲得した村などでも治水事業が始められます。また、戦国時代、防御用に城砦を整える必要が出たことで、土木技術が急激に発達し治水にも活かされました。武田信玄の信玄堤、豊臣秀吉の太閤堤は有名です。(堤=堤防の一種、土手のように土を盛り上げたもの)
さて、江戸時代(17世紀)に入ると、安定的な経済の基盤づくりとして治水事業はさらに大規模になっていきます。治水手法も多々編み出されました。最も多いのは「瀬替え=河川の付け替え」です。川の流路ごと変えることで、多くは一つの川を別の川に合流させるもので、一大事業でした。また、江戸の人たちは堤防を低めに二重に築くことで、穏やかに水を溢れさせるようにしていました。高い堤防を築けば破堤した時の危険度が高まることを知っていたからです。治水に関する資料は多く残っていますので、日本の古文書に興味がある方には面白いかもしれません。
ところで神田川はどうしたのか?
江戸時代、神田川は何度も瀬替え=河川の付け替え・開削・川幅の拡幅・埋め立てが行われました。これらの工事は大名たちに割り振られ、割り振られた大名にとっては財政的に痛手でした。そうは言っても断れません。仙台藩主・伊達政宗が開削した飯田橋駅付近から秋葉原駅付近は「仙台堀」と呼ばれ、苦労の跡が今に残っています。大名たちの尽力にも関わらず、神田川の氾濫はそれでも頻発したそうです。橋が流されたり、水道施設が破壊されたりと、江戸の人々を悩ませ続けました。
神田川は高度成長期には生活排水の流入で水質汚濁がすすみ、死の川とあだ名されましたが、現在では下水道網の改善と元来豊富な湧き水に支えられて、鯉や鮎、鮒などが生息するまでに回復してます。
神田川に沿って24キロ歩いて行けば、水源となる井の頭池に行きつきます。神田川沿いは桜の並木が綺麗なところも多いので、歩くのが得意な方は工事に携わった江戸大名の気持ちになって、一度、神田川沿い逆流ウォークにトライしてみても良いかもしれません。
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