ローマ教皇の衛兵シュヴァイツァーガルデ

皆様はスイス衛兵をご存知でしょうか?はい、そうです。カラフルな衣装に身を纏い、ヴァチカン市国でローマ教皇の護衛を務めるスイス人衛兵部隊のことです。

「何故スイス人の兵士がヴァチカンに?」と、疑問を抱いてその内容について独自に調べられた方も少なくないと思いますが、詳しいことは分からないという人がまだまだ多いのではないでしょうか?

そこで、今回はスイス衛兵を初め、スイスの傭兵についてのお話をさせていただきたいと存じます。

 

 

500年以上の歴史を誇る衛兵隊

 

ヴァチカンに関するニュースでテレビにも度々登場するスイス衛兵は「シュヴァイツァーガルデ」(Schweizergarde)と呼ばれ、ヴァチカン市国への出入り口、ヴァチカン宮殿およびガンドルフォ城の警備、並びにローマ教皇の護衛を任務とする独立の武装部隊です。

シュヴァイツァーガルデが初めて採用されたのは1506年のことで、教皇ユリウス2世(Julius II.)がそれまで各国から集めていた衛兵に代わってスイス人150名による常備軍を設立することを決定したことに由来します。

しかし、1527年のローマ劫略の際に大半の隊員が命を落としたため、ヴァチカンは12名のスイス人を除いてドイツ人による衛兵隊を雇いますが、それは一時的なものに過ぎず、1548年には再びスイス人200名から構成されるシュヴァイツァーガルデが採用されたのです。

また、1789年にはフランス革命後にフランス軍がヴァチカンに侵略し、教皇ピウス6世(Pius VI.)が逃亡を余儀なくされたので、当時のスイス衛兵はその任務を解かれ、部隊の解散を命じられました。

しかし、1800年には教皇ピウス7世(Pius VII.)が3度目となるシュヴァイツァーガルデの採用を決定し、これは中断することなく現在も継続しています。

さらに、ヴァチカン市国ではスイス衛兵以外にも貴族衛兵、宮殿衛兵およびヴァチカン憲兵の計4つの衛兵隊が警備と護衛に当たっていましたが、1970年の教皇の命により、貴族衛兵と宮殿衛兵は廃止され、ヴァチカン憲兵は警察任務のみを担当することが決まったことから、シュヴァイツァーガルデは現存する唯一のヴァチカン衛兵隊なのです。

 

サン・ピエトロ大聖堂の内玄関を警備するシュヴァイツァーガルデ
サン・ピエトロ大聖堂の内玄関を警備するシュヴァイツァーガルデ

 

「無敵」の異名を持つアイトゲノッセン

 

一時的に解散されたものの、ヴァチカンはいったい何故スイス人による衛兵隊を500年以上も採用しているのでしょう?

その理由は数百年にわたるアイトゲノッセン、即ちスイス人の実績にあります。

スイス人が傭兵として他国に仕える歴史は非常に古く、アイトゲノッセンシャフトの誕生以前まで遡ります。例えば、独立するまで神聖ローマ帝国の一部であったウーリ州(Kanton Uri)とシュヴィーツ州(Kanton Schwyz)の民は数々の戦争に参加していたことが確認されています。

しかも、彼らは常に勝利に貢献するほど優秀で、イタリアのファエンツァ(Faenza)などで大活躍した功績を讃える証として帝国直轄領の地位が与えられたほどです。

そして、帝国からの独立を果たし、アイトゲノッセンシャフトを設立した後も幾度となくハプスブルク家との衝突を繰り返しましたが、大軍を相手にしても一度も負けることはなかったため、アイトゲノッセンは他国でも恐れられ、無敵であるとまで言われるようになったのです。

特に1444年のサンクト・ヤコブ・アン・デル・ビルス(Sankt Jakob an der Birs)の戦いでは僅か1500人のアイトゲノッセンがチューリッヒの侵略を試みた2万人のフランス王国兵に立ち向かいました。

その際、アイトゲノッセン軍は16名の生存者を除いて全滅したのですが、フランス軍も数千人の兵力を失って侵略の継続を断念したため、結果的にアイトゲノッセンは命と引き換えに勝利を勝ち取ったのです。

この出来事は瞬く間にヨーロッパ全土に広がり、スイス人は死ぬことすら恐れぬ勇敢な戦士達で、スイス人に手を出すと大きな代償を払わされるというイメージが生まれたのです。しかも、敵であったフランス王国でさえその実力を認め、それ以降はスイス人の傭兵を兵力として雇うことにします。

 

傭兵稼業の一環として生まれたシュヴァイツァーガルデ

 

また、アイトゲノッセンは国防だけでなく北イタリアで領土の拡大も図り、とてつもない勢いでミラノへの侵略を進めていました。

しかし、1515年のマリニャーノ(Marignano)の戦いで史上初となる大敗を期し、無敵の異名を失うことになります。

ショックがあまりにも大きかったせいか、アイトゲノッセンはそれ以降拡張戦略を諦め、中立主義を主張し、フランス王国と平和条約を締結します。

これによって占領した一部の地域は正式にスイスの管理下に置かれ、後のイタリア語圏を形成することになるのですが、同時にフランスに傭兵を提供することが決まります。

したがって、スイス人は今後自国軍としての活動を廃止し、傭兵として他国に仕えることに専念し始めます。

一方、スイス人による常備軍を設立したフランス王国の兵力は一気に増したため、各国では戦争の結果はスイス傭兵隊が左右すると噂されるようになりました。

その結果、スペイン、オランダ、イギリス、ポーランドなども同様にスイス傭兵連隊を常備軍として雇い、傭兵稼業はスイスの一大産業にまで発展します。その優秀さと忠誠心からスイス傭兵を高く評価し、フランス王ルイ14世(Louis XIV.)のように衛兵部隊として採用する貴族も少なくありませんでした。

それらは通常のスイス傭兵隊と異なり、「シュヴァイツァーガルデ」と呼ばれ、ヴァチカンのシュヴァイツァーガルデもその一例です。

それ以外に1581年以降ロレーヌ公爵の衛兵として、後に公爵家の妻となったマリア・テレジア皇后(Maria Teresia)に仕えたシュヴァイツァーガルデも有名です。

皇后はスイス衛兵をとても大切にしており、それらのために専用の宮殿シュヴァイツァーホーフ(Schweizerhof)を建てただけでなく、ロレーヌ公爵である夫が死去してそれらが解散を命じられた後も勤務に当たっていた約450名の衛兵とその遺族に報酬を払い続けたと伝えられています。

 

ウィーンにあるホーフブルク宮殿内のシュヴァイツァーホーフの門「シュヴァイツァートアー」
ウィーンにあるホーフブルク宮殿内のシュヴァイツァーホーフの門「シュヴァイツァートアー」

 

スイス傭兵史唯一の遺物

 

各国の軍隊や貴族の衛兵として名を挙げていたスイス傭兵ですが、戦場ではスイス人同士がぶつかり合うこともあり、傭兵の管理と輸出を専門職とする人物による汚職問題も多発していました。

さらに、近代化と産業革命が進むに連れて傭兵の需要は減る一方だけでなく、収入源としての魅力も徐々に低下しつつありました。

そのため、部隊を建てられるほどの人材を集めることが困難になり、19世紀前半には各国でスイス人による常備軍が廃止されるようになります。

それでも個人で他国軍に加わるスイスの傭兵は引き続き存在しました。しかし、1859年にイタリアのペルージャ(Perugia)で起きた反乱軍の虐殺やナポリで勃発したスイス傭兵による暴走などでスイス人のイメージが悪化したことを踏まえ、スイス政府は他国によるスイス傭兵の募集を禁止したのです。

その後も複数の条例が発効されたのですが、既存の傭兵隊や個人契約に関する規定が不透明だったため、1929年に新たな刑事訴訟法で他国における軍事組織への加入が処罰の対象となることが定められました。

その際、ローマ教皇に仕えるシュヴァイツァーガルデに関しても議論が交わされたのですが、シュヴァイツァーガルデは事実上軍事組織ではなく警察隊であると見なされ、連邦政府はそれを対象外とする決定を下しました。

したがって、ヴァチカンのシュヴァイツァーガルデはかつて数多く存在したスイス人傭兵隊で唯一の生き残りとなったのです。

 

現在のシュヴァイツァーガルデ

 

現在、ローマ教皇のシュヴァイツァーガルデは135名の隊員から構成される連隊です。

隊員として採用されるのはスイス国籍を有する身長174センチ以上で最長30歳までのカトリックの男性の内、高等学校卒業または職業訓練を終了、ならびにスイス軍隊の新兵学校も卒業しており、かつ犯罪歴のない者のみです。

また、一度隊員となれば最低26カ月の勤務が義務付けられ、懲戒免職を除いて除隊は認められません。

一般の兵士はハルバード兵(Hellebardier)と呼ばれ、その名の通り、ハルバードを持って任務に当たりますが、剣も標準装備として身に付けます。

伍長と副伍長に関してはハルバードの代わりにパルチザンまたはフランベルジュなどスイスの傭兵が代々使用していた武器を携帯します。

ただし、これらはあくまで伝統的な形式で実施される宮殿警備に限られており、ローマ教皇のSPを務める際はピストル、催涙スプレー、テーザーガンなど近代的な武器を使用します。

これは制服においても同様で、シュヴァイツァーガルデの代名詞とも言えるあのカラフルな衣装は正装として通常の職務で着用されます。

それ以外に訓練および夜間勤務に着用されるブルーの練兵服があります。因みに、正装はあの天才芸術家ミケランジェロ(Michelangelo)がデザインしたとの噂がありますが、実際には第24代隊長のジュール・ルポン(Jules Repond)が1914年に過去の衣装を参考に作ったものです。

ただし、使用されている赤、黄、青の3色はメディチ家(Medici)の家紋に由来します。そして、隊員の被り物は常に紺色のベレー帽ですが、日曜日のみモリオン(Morion)と呼ばれる羽根飾りの付いた兜を被った姿を見せます。

 

正装にモリオンを被っているハルバード兵
正装にモリオンを被っているハルバード兵

 

今回はスイス国外における話題が中心でしたので初耳だった内容も多かったのではないでしょうか?

特に、永世中立国として戦争と無縁な国の印象が強いスイスが実は長きにわたってヨーロッパ各国に傭兵を輸出していた戦闘民族だったことは意外ですよね?

しかし、スイス人は兵力として高く評価された一方、恐れられていたからこそ今日まで続くその中立性と平和を維持できたのではないかとの意見もあります。

ヴァチカンに関しても過去に侵略されたり、教皇が暗殺されかけたりしたにも拘らず、その独立性を現在まで失わずに済んだのもシュヴァイツァーガルデのお陰かもしれません。

したがって、シュヴァイツァーガルデが今後もその武力を行使することなく、ヴァチカン市国の平和と安全を守ってくれる部隊であらんことを願っています。

では

Bis zum nöchschte mal!

Birewegge


今回の対訳用語集

 

日本語 標準ドイツ語 スイスドイツ語
宮殿 Palast

(パラスト)

Palascht

(パラシュト)

侵略 Eroberung

(エアオーバルング)

Eroberig

(エルオーベリク)

解散 Auflösung

(アウフレースング)

Uuflösig

(ウーフレースィク)

負ける verlieren

(フェアリーレン)

verlüüre

(フェルリューレ)

戦士 Krieger

(クリーガー)

Chriäger

(フリエゲル)

雇う anstellen

(アンシュテレン)

aaschtelle

(アーシュテレ)

常備軍 stehendes Heer

(シュテーエンデス・ヘアー)

schtehends Heer

(シュテーエンツ・ヘール)

収入源 Einkommensquelle

(アインコンメンスクヴェレ)

Iikommensquällä

(イーコンメンスクヴェレ)

募集 Anwerbung

(アンヴェアブング)

Aawerbig

(アーヴェルビク)

発効 Inkrafttreten

(インクラフトトレーテン)

Inchraftträte

(インフラフトトレテ)

 

参考ホームページ

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