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日本で初めてスキーレッスンを行ったのはスイス人だった件
目次
12月になって今年ももうあと僅かのところまでやってきました。
年末と言えば忘年会やクリスマスに加え、大掃除も控えていることから、何かとバタバタする時期ですよね?
また、気温も下がって、風邪を引かないように体調にも気を配る必要がありますので、冬はどちらかというと苦手な方も少なくはないと思います。
しかし、ウィンタースポーツを楽しむ人にとっては逆に待ち望んだ季節で、これからが本番であると感じているのではないでしょうか?
雪国であるスイスにおいてはスキーやスノーボードが国民的なスポーツと言えるほど人気で、冬が嫌いな人を含め、国民の殆どが恒例行事のように最低でも年に一回はゲレンデに足を運ぶのが普通です。
それに対して日本では地域差があるものの、ウィンタースポーツを一切しない割合が意外と高い印象を受けます。
生まれ育った場所が雪の降らない沖縄か積雪が数メートルにも及ぶ北海道かで、ウィンタースポーツとの関わり方にも大きな違いが生じるのは無理もありませんし、スポーツは個人で好き嫌いが分かれますが、競技人口がもう少し多くてもいいのではと感じます。
因みに、日本でスキーと言えば、日本において初めてスキーレッスンを行ったのはスイス人だったことをご存知でしたか?
この事実は今から100年以上も前の出来事で、教科書にも掲載されていないことから知らない方も多いと思いますので、今回はとあるスイス人も大きく関与している日本のスキーの歴史についてご説明させていただきます。
日本で最初にスキー術を伝えたレルヒ
日本におけるスキーの起源ついて調べると、真っ先に「レルヒ」という名前が登場します。
「レルヒ」とは、1910年に来日して新潟や北海道でスキー指導に従事したオーストリア=ハンガリー帝国の軍人テオドール・エードラー・フォン・レルヒ(Theodor Edler von Lerch)少佐のことです。
日露戦争後、欧米諸国は戦争経験が比較的少ない日本が、如何にして軍事大国として知られていたロシアに勝利することができたのかに注目し、その背景を探るために各国から軍の関係者が日本に派遣されました。
そしてレルヒ少佐もそのうちのひとりでした。
とはいえ、レルヒ少佐はノルディックスキーを基に誕生したアルペンスキーの創始者であるマティアス・ツダルスキー(Mathias Zdarsky)に師事し、オーストリア=ハンガリー帝国軍内でスキー技術の採用を積極的に働きかけた実績を持っており、来日する際にスキー板を持参していたこともあって、逆に日本陸軍から指導員としてスキー技術の伝授を依頼されたのです。
趣味としてもスキーが大好きだったレルヒはその依頼を喜んで引き受け、持参してきたスキー板と同じものを数十組用意させて、1911年1月に新潟県中頸城郡高田(現在の上越市)にある第13師団歩兵第58連隊にてスキーの指導を開始します。
レルヒ少佐の教えを受けた専修員は短時間でスキーの技術を習得し、それらが滑走する姿を目の当たりにした軍人だけでなく、地域住民も瞬く間に興味津々となって、なんと指導を始めてから僅か1カ月後にスキー俱楽部が結成されるほどの人気を誇りました。
それに便乗して、高田を含む上越地方ではスキー板やウェアーの生産を始め、スキー関連事業が一大産業へと発展するきっかけにもなったのです。
その後、中佐に昇格したレルヒは北海道でも同様にスキー指導を行う依頼を受け、1912年2月から旭川市の第7師団にスキー術を伝えます。
レルヒ中佐は北海道でも行軍など実践的な訓練を行い、2カ月弱で生徒と共に羊蹄山に登って頂上からスキーで滑走するほどのレベルにまで成長させたのです。
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レルヒより先に日本でスキーを披露した人物がいた
レルヒが日本陸軍向けに行った訓練は日本における本格的なスキー指導の最初の事例とされているため、レルヒは「日本スキーの父」と呼ばれており、日本でスキーを広めた第一人者として位置付けられています。それに伴い、上越市は「日本スキー発祥の地」と称され、同市の金谷山公園には「日本スキー発祥記念館」に加え、レルヒの銅像が建てられたのです。
また、旭川市も「北海道スキー発祥の地」の異名を持ち、旭川空港の敷地内にレルヒを顕彰する像があって、その功績を称えています。
さらに、公益財団法人全日本スキー連盟(SAJ)は2002年にレルヒが日本でスキー指導を開始した1月12日を「スキーの日」と制定したこともあり、レルヒは日本だけでなく、本国のオーストリアでも日本スキーの先駆者とされているのです。
しかし、2000年以降に発表された様々な研究で、レルヒが日本を訪れる以前にスキーが日本にもたらされ、日本で試乗、および日本人を相手にスキー授業が行われた事実が分かりました。
そもそもスキー板に関しては樺太アイヌを始め、ロシア各地で雪上移動のために使用される板かんじきが「歩くスキー」として江戸時代後期の文献に掲載されており、明治時代にはそれを日本国内で履いて試した報告も複数存在します。
それ以外にも1902年に神戸駐在スウェーデン=ノルウェー連合王国の総領事であったペーター・オッテセン(Peter Ottesen)が、同年に起きた甲田雪中行軍遭難事件との関連で、日本陸軍も北欧の軍隊と同様に行軍にスキーを標準装備していればあんな大きな犠牲者数は出なかったであろうという本国の君主の思召しに従い、オスロ(Oslo)からスキーを輸入し、日本政府に寄贈しました。
しかも、オッテセン総領事はスキーを寄贈する前にそれらを自ら履いて神戸市内で滑り、日本人にも教えたとされています。さらに、1909年には東北帝国大学農科大学(現北海道大学)でドイツ語講師を務めていたスイス人ハンス・コラー(Hans Koller)が、スイスからスキーを取り寄せ、予科生に使い方を披露した資料や写真が残っているので、実際のところ、レルヒは日本におけるスキー板の導入に加え、スキーの授業を行った点ではすでに先を越されていたことになるのです。1
素人でありながら日本人にスキーを教えた男
レルヒが来日する前から日本にスキー板が持ち込まれ、日本でスキーを滑った人もいたものの、それらは何れも個人もしくは限られた極僅かな人数にしか知られていなかった事実でした。
それに対して、レルヒは個人の範囲を超えて国内でスキー板を生産させ、多くの日本人にスキーを実践してもらって正しい使用方法まで指導したことから、日本におけるスキー術の普及をもたらした立役者であると言えます。
ただし、上述の東北帝国大学農科大学に赴任していたスイス出身のハンス・コラーもまた日本でスキー板を作らせ、多数の日本人にスキーを履かせて雪上を滑らせた人物でした。
しかも、コラーがそれを行ったのはレルヒが高田でスキーの指導を開始する2年前だったので、コラーこそ日本スキーの生みの親ではないのかという疑惑が浮上します。
当時の記録で詳しい経緯を辿ると、コラーは東北帝国大学農科大学の予科生にドイツ語を教える講師として1908年9月に来日しました。関連は不明ですが、授業でスキーを「壮快なる遊戯」として紹介したことをきっかけに、生徒から実物を見てみたいとせがまれてコラーは母国からノルウェー式スキー板とドイツ語の参考指導書を輸入します。
そして、翌1909年に大学の敷地内(一説には同校の別の教員の住宅の庭園内)で取り寄せたスキー板を生徒に履かせ、コラー自らが手綱でスキーを着用した生徒を引っ張りながら滑走する姿を披露したとされています。
その後、生徒達の間ではスキーを本格的に乗りこなしたい思いが湧いたので、生徒達は馬橇屋にコラーが輸入したスキー板と同じものを製造させ、授業後に札幌市西部にある三角山に通ってスキーの練習を行うのが日課となりました。
コラー自身も生徒の練習に付き合い、参考指導書を基に滑り方を可能な限り伝えようとしたのですが、その指導には限界がありました。
というのも、コラーはなんと札幌を訪れるまで一度もスキーに乗ったことがない素人だったのです。
したがって、コラーは未経験者でありながらも生徒達の「スキーを見てみたい、やってみたい」という願いに応え、スキー板を取り寄せてレッスンを付ける情熱的で心優しい先生でした。
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このように、コラーの授業はプロまたは上級者による指導ではなく、むしろ自由研究みたいなものでしたが、実質日本で初めてのスキーレッスンだったと言えます。
また、北海道に限定すれば、近代的な競技用のスキーを最初に導入したのもコラーでした。
レルヒがアルペンスキー創始者の弟子として日本初の本格的なスキー指導者であり、その教えがもたらした影響から、日本国内で最もスキーの普及に努めた人物であるのは疑う余地がないものの、時間軸を見ればコラーはそれ以前に日本でスキーを広めていました。
さらに、レルヒは元々日本陸軍の依頼を受けてスキーを軍事利用の一環で伝えたのに対し、コラーはスキーを「壮快なる遊戯」と呼んで、現在皆様も知っている一般向けの趣味として紹介したことにも注目しなくてはなりません。
というのも、レルヒが伝えたスキー術に多くの人々が魅了されたことをきっかけに日本初のスキークラブとして1911年に設立された「高田スキー倶楽部」は翌年既に約6000人の会員を誇るほどの人気でしたが、それらには民間人だけでなく、かなりの数の軍人や政府関係者も含まれていました。
そして、レルヒに加えて、乃木希典大将が名誉会員に就任したことを踏まえると、当該スキークラブが日本軍直属もしくはその影響下に置かれていた組織であったことを否定できません。
一方、コラーの授業を受けた予科生によって1912年に創部し、今や日本で最も長い歴史と伝統を誇る学生倶楽部のひとつである「東北帝国大学農科大学文武会スキー部」(現北大スキー部)は最初から純民間組織として誕生したのです。
それ以外にも、レルヒが教えたとされるのは1本杖式スキー術で、コラーは杖を2本使用するスキー術を披露した記録が残っています。つまり、レルヒによる1本杖方式と軍隊での活用がその後衰退して、コラーの2本杖方式と庶民の娯楽としての利用が主流となったことを考慮すると、むしろコラーの方が後世に引き継がれる日本スキー界の基礎を築いたと言えます。
以上が日本で初めてスキーレッスンを行ったハンス・コラーについてのご紹介です。
ウィンタースポーツにご興味がない方はもとより、それ以外の大半の人もなかなか触れる機会がない話題でしたので、楽しんでいただけたでしょうか?
本記事ではコラー以外にも、日本におけるスキーの普及との関連でレルヒの功績も採り上げましたが、日本国内での両者の評価にかなりの差があることを強調させていただいたことも伝わったかと思います。
それは私自身が同じスイス人としてハンス・コラーという人物をもっと知ってもらいたいのもある一方、日本のスキー史でレルヒばかりが称えられ、コラーの存在が過小評価されているように感じてならないからです。
もちろん、レルヒが日本におけるスキー競技のために多大な貢献をしたのは紛れもない事実ですが、それと同様にコラーもまた大いに賞賛に値するひとりであると言えます。
それなのに、コラーに関してはその実績を顕彰する記念碑すら建立さられておらず、小樽スキー記念館など一部の限られた場所を除けば名前が登場することも殆どありません。
したがって、本記事がせめて読者の皆様の間でハンス・コラーが遺した功績の再認識ならびに再評価に繋がればと願っています。
では
Frohi Wiänachte und es guets neus!
Birewegge
1出典:北海道大学学術成果コレクション:中浦皓至「日本スキーの発祥前史についての文献的研究」
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/28833/1/84_P85-106.pdf
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
風邪 | Erkältung
(エアーケルトゥング) |
Erchältig
(エルヘルティク) |
戦争 | Krieg
(クリーク) |
Chriäg
(フリエク) |
指導 | Unterweisung
(ウンターヴァイスング) |
Unterwiisig
(ウンテルヴィースィク) |
かんじき(樏、橇、檋、梮) | Schneeschuh
(シュネーシュー) |
Schneeschuä
(シュネーシュエ) |
ドイツ語講師 | Deutschlehrer
(ドイチュレーラー) |
Düütschlehrer
(デューチュレーレル) |
資料 | Unterlagen
(ウンターラーゲン) |
Unterlage
(ウンテルラゲ) |
指導書 | Anleitung
(アンライトゥング) |
Aaleitig
(アーライティク) |
生徒 | Schüler
(シューラー) |
Schüeler
(シュエレル) |
上級者 | Fortgeschrittener
(フォアートゲシュリッテナー) |
Fortgschrittene
(フォルトクシュリッテネ) |
名誉会員 | Ehrenmitglied
(エーレンミトグリート) |
Ehremitgliid
(エーレミトグリート) |
参考ホームページ
スイス歴史辞典:ハンス・コラー:https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/043944/2007-08-23/
スイス国立工科大学図書館E-Periodica:「日本における登山:北アルプス槍ヶ岳」:https://www.e-periodica.ch/cntmng?pid=ast-002%3A2003%3A57%3A%3A1027
ドイツ東洋文化研究協会:2021年11月のノート フィーチャーIII「辻村の「スイス日記」と日本におけるアルピニズム」:https://oag.jp/img/2021/10/Notizen2111_Mottini_Alpinismus.pdf
オーストリア連邦国防相:テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少将:https://www.bmlv.gv.at/truppendienst/ausgaben/artikel.php?id=892
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スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
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