スイス人にしかないアイデンティティ「ハイマトオルト」

 

少し前にパスポートの更新を行ったのですが、スイスが2022年11月に20年ぶりにパスポートを完全リニューアルしたので、新しいパスポートが届いた際に早速中身を確認しました。

今回は表紙と各ページにアルプスをモチーフにした地形が採用され、個人的には以前の各州の名所が描かれていた作りの方が好みだったので、新デザインには少しがっかりしたのが正直な感想です。

また、顔写真と個人情報が記載されているページを眺めていた際に、久しぶりに自身の「ハイマトオルト」を見て、「そういえば自分のハイマトオルトってあそこだったな」と思いながらそんなものをそもそも記載する意味があるのかと疑問に感じました。

その直後、スイス人なら誰しもが私の思考を理解して共感できる人も少なくはない一方、日本人からすればいったい何の話をしているのか全く分からない状況であることに気付きました。

そこで、日本の皆様がこのような内容を知るきっかけが殆どないことから、本ブログの記事にしてみるのも意外と面白いではないのかと考えた次第です。

したがって、今回はスイス人にとって当たり前だけど、日本人にとっては未知の領域でしかない「ハイマトオルト」についてのお話をいたします。

 

 ハイマトオルト=本籍地?

 

今回の話題であるハイマトオルト(Heimatortに関するご説明を始める前に、まず私が何故パスポートを見てハイマトオルトに注目したのかについて補足します。

国や地域を問わず、パスポートに記載される基本的な個人情報としては氏名、国籍、生年月日、性別ならびに出生地がありますが、スイスのパスポートには出生地の代わりハイマトオルトが書かれるのが現状です。

これは身分証明書を始め、国や自治体が管理する様々な公文書においても同様で、殆どの書類には出生地の欄すら存在せず、ハイマトオルトばかりが記載されています。

(文章によっては「ビュルゲルオルト」(Bürgerort)と称していますが同義語です)。

とはいえ、ハイマトオルトは当然ながら出生地を指している訳ではありません。

直訳すると「土着地」を意味することから、ハイマトオルトを居住地と推測する人もいるかもしれませんが、残念ながら居住地とはまた別のものです。人によってはハイマトオルトが居住地と一致するものの、内容的には大きく異なり、両者を区別する必要があります。

では、もしかして日本で言う「本籍地」みたいなものなのかと問われると、イエスかノーかで回答するのが少し難しいです。

戸籍は身分に関連する日本固有の制度のひとつであり、日本のパスポートにも出生地の代わりに本籍を管理している都道府県を記載している他、登録や申請手続きを除けば日常生活に全くと言っていいほど重要ではないので、ハイマトオルトと共通している要素は非常に多いです。

さらに、ハイマトオルトを訪れるどころか、中には一生関わることなく生涯を終えるスイス人が少なくない点も日本の本籍地と似ています。

ただし、ハイマトオルトは特定の条件下で個人に対して大切な役割を果して本来の機能を発揮することから、結局のところ、世界のどの国にも類を見ないスイス特有のアイデンティティであると言わざるを得ません。

 

Schweizer Pass – neues Design (ab 2022), Quelle: Schweizer Bundesamt für Polizei (Fedpol) スイスのパスポートで出生地の代わりに記載されるハイマトオルト(写真:YouTube / Swiss Federal Police fedpol)

 

 

代々受け継がれてきた旧アイトゲノッセンシャフトの遺物

 

このように、ハイマトオルトを一言で表すにはかなり無理があり、全容を正しく理解するにはその歴史を振り返った方が手っ取り早いので、ハイマトオルトの誕生から現在までの歩みを簡単にご説明いたします。

ハイマトオルトの概念は、神聖ローマ帝国からの独立を決意して三源州が盟約を結んでアイトゲノッセンシャフトを結成した13世紀末まで遡ります。

長きに亘って繰り広げられたハプスブルク家の侵略に対抗するには、継続的な兵力の確保が不可欠だったため、アイトゲノッセンシャフトの加盟州は、住民を国外へ避難または逃亡させない必要がありました。

そこで、各自治体は全ての居住者を住民として登録し、それらに徴兵義務を課したのです。

その見返りに自治体は住民の生活を保障する義務を負い、農作物を作るための入会地の利用や住宅を建てるのに使う森林の木材を無償で提供し、生活費に困った居住者がいれば金銭的な生活保護まで約束しました。

また、住民登録によって選挙権を始め、様々な民権を取得することにも繋がり、中世ヨーロッパでは通常貴族や聖職者が大半の権限を握っており、一般民衆には限られた権利しか与えられていなかったことを考えると、これは当時の住民にとって相当美味しい話でした。

したがって、実際に半強制的ではあったものの、アイトゲノッセンシャフトでは自治体と住民が互いの権利と義務を定めたWin-Win関係を築く制度が確立されていました。

そして、住民に対してその責任を負っている自治体こそが「ハイマトオルト」だったのです。

さらに、住民登録を通じてハイマトオルトと成立した関係は例え別の場所に移り住んだとしても永久的に消滅することはなく、全ての子孫にも相続されます。

そのため、スイス人は現在も住んでいる場所を問わず、生まれてきた瞬間に先祖代々のハイマトオルトを自動的に受け継ぎ、スイス人としての国籍ならびに公民権を保障され、その証として「ハイマトシャイン」(Heimatschein)と呼ばれる公文書が交付されるのです。

逆に言えば、ハイマトオルトがない限りスイス国籍とスイスにおける公民権は認められないので、ハイマトオルトが如何にスイス人のアイデンティティを構成する重要な要素であるかが窺えます。

 

チューリッヒ市が発行したハイマトシャインの例(写真:Adrian Michael、CC BY 3.0

 

ハイマトオルトはもはや意味のない廃れ物?

 

そんなハイマトオルトですが、近代化が進むに連れて農作物を作るために自治体の入会地や森林の木材を利用する人が激減したことで、社会保障のみがハイマトオルトの実質的な機能になっていました。

というのも、祖先の世代には大半の住民の居住地がハイマトオルトになっていたものの、出稼ぎを始め、仕事または生活の利便性を求めて他の場所に移り住む人が増えたことを考慮して、選挙権はハイマトオルトではなく、居住している自治体で行使することが可能になったのです。

日本でも明治時代以降、さらに経済成長期には生まれ故郷を離れて首都圏に移住する人が急増し、少子高齢化の影響もあって、今では深刻な人口減少問題を抱えている地方自治体も少なくありませんよね?

さほど極端な例は見られないとはいえ、スイスにおいても遅くとも19世紀から同様な現象が起こり、地方に位置する自治体は別の市町村に引っ越した住民からの税収は見込めないにも拘わらず、ハイマトオルトとしてそれらに社会保障を支給するばかりでした。

中には、貧民を村八分にしたり、示談金を支払って国外に移住してもらったりする自治体すらあったほどです。

その事実を踏まえ、連邦政府は法改正を行い、第1次世界大戦以降はハイマトオルトの社会保障に関連する負担を軽減して居住地にその責任を負わせました。

そして、2012年の生活困窮者支援に関する管轄の連邦法を見直した際、ハイマトオルトを社会保障の支払いから完全に解放することが決定ました。

これにより、ハイマトオルトが数百年間背負っていた法的義務は全てなくなり、殆どのスイス人にとって身分証明書とパスポートに記載されるだけの縁もゆかりもない「地名」となってしまったのです。

 

国外在住者の管理自治体と歴代戸籍の保管場所

 

私自身もそうなのですが、スイスに住んでいた頃はハイマトオルトが祖先の故郷であるという感情的な思いを除けば何の繋がりもありませんでした。

しかし、日本に住み始めてしばらく経ってから、ハイマトオルトがその意味を現在完全に失った訳ではないことを実感することになりました。

というのも、スイス国内在住であれば国・州・市町村に関する全ての管理業務は居住地が行っているものの、国外在住者であればそれらがハイマトオルトの管轄となるのです。

したがって、毎年数回実施される国民投票に必要な書類はハイマトオルトから送付され、ハイマトオルトでの投票を求められます。

また、必要性が生じれば氏名の変更などの手続きを申請する窓口でもあり、別の国籍を得てスイス国籍を放棄したい際にそれを承認するのもまたハイマトオルトの役目です。

さらに、スイスでは戸籍役場の設立と戸籍簿への記入と管理が法律で定められたのが1876年のことだったので、それ以前はハイマトオルトが基本的にその業務を担って、出生、婚姻、離婚などの事項を記録していました。

各自治体がそれらをどこまで正確に把握して書面に残したのかにもよりますが、言い換えればハイマトオルトは数百年も遡るそれぞれの住民の戸籍原本を保有しており、祖先についての調査や家系図の作成に不可欠な資料の数々を保管してる場所です。

しかも、それらの資料は家系学の観点のみならず、市町村の歴史研究においても非常に重要な文化財であると言えます。

そういう意味でハイマトオルトはスイス国内にいればまず関わることがなくても、国外在住者となれば個人の管理業務を請け負う機関として機能し、自身の過去を知る上でも欠かせない存在です。

 

 

スイス人にしかないアイデンティティ「ハイマトオルト」についてのご紹介は如何でしたか?

日本の皆様にとっては馴染みのないものだけあって、理解できない部分もあるでしょうが、上述の通り、今となってはスイス人もその意味や存在について多くの疑問を抱いているので、古人から引き継いで現在まで生き残った風習みたいなものであると考えていただければいいかもしれません。

逆に、まだ分からない点がある方やもっと詳しく知りたいと感じている人がいればそれらのお悩みを喜んで解消させていただきたいと存じますので、コメントなどで是非ご感想やご意見をお寄せください。

 

では

Bis zum nöchschte mal!

Birewegge


今回の対訳用語集

日本語 標準ドイツ語 スイスドイツ語
表紙 Einband

(アインバント)

Iiband

(イーバント)

ページ Seite

(サイテ)

Siite

(スィーテ)

個人情報 persönliche Daten

(ペアセーンリヒェ・ダーテン)

persönlichi Date

(ペルセーンリヒ・ダーテ)

性別 Geschlecht

(ゲシュレヒト)

Gschlächt

(クシュレフト)

身分証明書 Personalausweis

(ペアソナールアウスヴァイス)

Personaluuswiis

(ペルソナールウースヴィース)

登録 Registrierung

(レギストリールング)

Regischtriärig

(レギシュトリエリク)

生活保護 Sozialhilfe

(ソツィアールヒルフェ)

Sozialhilf

(ソツィアールヒルフ)

税収 Steuereinnahmen

(シュトイアーアインナーメン)

Schtüüriinahme

(シュトュールイーナーメ)

示談金 Abfindung

(アプフィンドゥング)

Abfindig

(アプフィンディク)

失う verlieren

(フェアリーレン)

verlüüre

(フェルリューレ)

 

参考ホームページ

スイス連邦政府外務省:スイスにおける家系調査:https://www.eda.admin.ch/countries/spain/de/home/dienstleistungen/ahnenforschung/forschung.html

ツュリ・トゥデイ:「ハイマトオルトとはそもそも何を意味するのか?」:https://www.zueritoday.ch/zuerich/was-hat-es-eigentlich-mit-dem-heimatort-auf-sich-147916540

ベオバハター:「ハイマトオルト~不可欠な文化財だが法的に意味はない~」:https://www.beobachter.ch/gesetze-recht/unverzichtbares-kulturgut-aber-rechtlich-irrelevant-168396

サンクト・ガラー。タークブラット新聞:「ビュルゲルオルトとは特に感情的な繋がりがある」:https://www.tagblatt.ch/ostschweiz/mit-buergerort-vor-allem-emotional-verbunden-ld.667458

 

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