実はスイス出身だったハプスブルク家
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お気付きの方もいると思いますが、本ブログでスイスの名所や歴史的な内容をご紹介した際には必ずと言っていいほど「ハプスブルク家」の名前が登場しただけでなく、「ハプスブルク家」がスイスを征服しようとした因縁の相手のような存在として紹介されていました。
しかし、それは長い歴史の中での一定の期間における傾向であるに過ぎず、中世から現代までの全体的な流れを辿って見ると、むしろスイスとハプスブルク家の関係は思っている以上に複雑であり、単に「宿敵」や「ライバル」という言葉だけでは片付けられません。また、ハプスブルク家は別名「オーストリア家」(Haus Österreich)とも呼ばれていることからオーストリアの貴族というイメージが強いのですが、実は出身がスイスであるという事実をご存知でしたか?
つまり、ハプスブルク家とスイスの衝突は敵対する国同士による紛争というよりも一種の内戦であったと言えます。エリザベート皇后(Elisabeth von Österreich)を始め、個性豊かなキャラクターを多数輩出してきたハプスブルク家は日本でも認知度が高いので、その背景についても詳しく調べられた人も少なくないことかと考えますが、同家が元々スイスと深い関係にある一族であることを知らない方も多いため、今回はハプスブルク家とスイスの繋がりについてのお話しをさせていただきます。
スイスで生まれ、本拠をオーストリアへ移した貴族
1160年頃に作成されたと思われるハプスブルク家の系図を書き記した「アクタ・ムレンシア」(Acta Murensia)によると、ハプスブルク家の祖はアルザス公エティション家の傍系に当たるグントラム金満公(Guntram der Reiche)とされています。グントラム金満公は現在のフランスのアルザス(Alsace)、ドイツのブライスガウ(Breisgau)およびスイスのアールガウ州(Kanton Aargau)北部の領主として一大勢力を確立した人物でした。その後、特にスイス北部とドイツの南部で領土を拡張したその孫であるラートボト(Radbot)が1020年頃にアールガウ州中部のアーレ川(Aare)沿いに城を築き、それをハプスブルク城(Schloss Habsburg)と名付けました。これを機に、同家の子孫は代々城主として「ハプスブルク伯」(Graf von Habsburg)を名乗るようになっただけでなく、一族の名字にも「ハプスブルク」を取り入れることになったのです。
しかし、当時のハプスブルク家の貴族としての地位はさほど高くはなく、影響力も限られていたため、隣接する代官所や伯爵領などを取得すると同時に婚姻政策も積極的に行うことで政治的な権力の拡大を図りました。その結果、13世紀前半には現在のドイツ南西部とスイスドイツ語圏を含む広大な領土を手中に収め、1273年にはなんと同家から神聖ローマ帝国の君主の証であるローマ王が初めて選出されるまでに至ったのです。その直後に、ボヘミア王との戦いに勝利したことでオーストリア公国がハプスブルク家に渡り、その勢力範囲を徐々に帝国東南部にも広げました。
しかし、ハプスブルク家が自ら「本領」とも称していたスイスドイツ語圏では独立運動を引き起こしていたアイトゲノッセンとの度重なる衝突で領地を失いつつあったので、同家は次第にスイスから撤退し、本拠を「相続領」であるオーストリアのウィーン(Wien)へと移すことになります。それでも本領を諦めきれなかったハプスブルク家はその後も幾度となくスイスにおける失地の回復を試みましたが、それに成功するどころか、1415年に一族の原点と故郷でもあるハプスブルク城までアイトゲノッセンに奪われることになったのです。
存続していた故郷との繋がり
元々支配していたスイスの民の反感を買い、自らの所有地から追い出されたという事実はハプスブルク家にとって受け入れがたいことだったに違いありません。
したがって、それ以降も本領を取り返そうとしましたが、最終的に復古は叶わないと悟り、これ以上の損失を避けるためにも1474年にアイトゲノッセンと現状維持を前提とした平和条約を締結します。これによって本領を永久的に失ったハプスブルク家は当然ながらスイスにおける権力も放棄せざるを得なかったのですが、影響力が完全になくなった訳ではありませんでした。実はアールガウ州北西部に位置するフリックタール(Fricktal)一帯は引き続きハプスブルク家の領地として残りました。
また、貴族として政治的権力を拡大し、神聖ローマ帝国の皇帝になるにはローマ教皇から戴冠を受ける必要があったため、同家はハプスブルク城を築いた当初からスイスで複数の修道院を設立し、様々な領主修道院の取得を経てカトリック教会の保護者としての地位も確立していました。それらの修道院に関しては領地と共にそれぞれの所有権もアイトゲノッセンに渡りましたが、創立者および保護者としてのハプスブルク家の特権は存続していたのです。
例えば、ハプスブルク家が1309年に設立したケーニヒスフェルデン修道院(Kloster Königsfelden)には創立当初から同家専用の地下埋葬室が設けられており、1770年まで一族代々の墓として使用されていました。さらに、1027年にハプスブルク家の祖ラートボトとその妻イタ(Ita von Lothringen)によって創建されたムーリ修道院(Kloster Muri)には同家最古の墓所が存在するだけでなく、当時のハプスブルク家に関する貴重な資料も保管されていたため、常に密接な関係が保たれていました。しかも、その縁はなんと現在もなお続いていて、ハプスブルク家最後の皇帝とその家族の永眠の地となっています。
亡命者としてスイスに帰国
スイスにおけるハプスブルク家の影響力はほぼなくなっていたものの、神聖ローマ帝国内での権力は着実に増加しており、1438年から帝国が解体された1806年まではほぼすべてのローマ王と皇帝がハプスブルク家から選出されたのです。その間、婚姻によってスペイン王国を含む複数の国々を継承し、ヨーロッパ最大の領地だけでなく、スペインの中南米植民地をも支配する大帝国を築き上げました。
また、神聖ローマ帝国解体後はオーストリア帝国を形成し、一定の所有地と地位を保持してヨーロッパ内で優位性をさらに約100年間保つことに成功します。しかし、第一次世界大戦で連合軍に負けたことで、帝国を構成していた地域が続々と独立し、600年以上も続いたハプスブルク帝国は1918年に崩壊しました。
これにより、オーストリアは君主を持たない共和国となり、ハプスブルク家最後の皇帝カール1世(Karl I. von Österreich)は国務への関与を放棄するも、正式に退位しなかったため、家族と共に亡命を余儀なくされます。そして、亡命先となったのがよりによって祖先が征服に失敗し、一族を追い出したスイスだったのです。
その直後、オーストリア政府はハプスブルク家に対して永久追放を言い渡し、帝位継承権を放棄して共和国に忠誠を誓わない限り、再入国は一切認めないと宣言しました。それに対して、カール1世はスイスから2度にわたってハンガリー国王への復帰を試みますが、それが実現することなく病死します。カールの妻ツィタ皇后(Zita)の意思により、彼を含む同家の遺体はそれ以降ムーリ修道院に埋葬されることが決まり、彼女もまた皇后の称号を自ら捨てることなく、スイスでその生涯を閉じました。
最終的にカール1世とツィタの長男オットー(Otto von Habsburg)が1961年に帝位継承権を放棄する書面に署名したことで、ハプスブルク家はオーストリアへの入国許可と引き換えに君主としての地位と権限を失ったのです。
このように、ハプスブルク家とスイスの間には過去に千変万化、色々な出来事がありました。元を辿れば両者は同じ国の出身である同胞として戦場で激突し、後に停戦に合意するも微妙な距離感を保ち、最後はなんと意外な形で協力することにもなったのです。
冒頭でもご説明したように、スイスの歴史を語る際はハプスブルク家がアイトゲノッセンという名の反乱軍の結成およびスイスの独立の火種となった「悪役」にされることが少なくないのですが、本記事を通して両者の関係はそんな単純なものではないことをご理解していただけましたでしょうか?
それどころか、ハプスブルク家無くしてスイスの建国と発展はありえませんでしたので、同家はスイス史において最も重要な存在のひとつであったとも言うべきです。
また、「オーストリア家」と名乗っていたハプスブルク家も、スイスが自らのルーツであり、アイデンティティでもあることを意識していました。その証拠として、皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I.)は1507年に自身について「私はハプスブルク家の一員として生まれながらの善きアイトゲノッセである」と発言したほどです1。
したがって、ラストエンペラーとなったカール1世が亡命する際、スイスに受け入れを願い出た背景にもそういった繋がりがあったのかもしれません。日本でも宝塚歌劇のエリザベートを始め、ハプスブルク家に関連する様々な内容に触れる機会がありますので、それらをご覧になる際は同家がスイス出身の一族であることを意識してみてください。そうしますと今まで気付かなかった関係や新たに見えてくる点もあって、また違った楽しみ方ができると思いますよ。
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
別名 | andere Bezeichnung
(アンデレ・ベツァイヒヌング) |
anderi Bezeichnig
(アンデリ・ベツァイフニク) |
出身 | Abstammung
(アプシュタンムング) |
Abschtamig
(アプシュタミク) |
傍系 | Seitenlinie
(サイテンリニエ) |
Siitelinie
(スィーテリニエ) |
婚姻 | Heirat
(ハイラート) |
Hürat
(ヒュラート) |
選出される | auserwählt werden
(アウスヴァ―ル) |
uuserwählt werde
(ウースヴァ―ル) |
勢力範囲 | Einflussgebiet
(アインフルスゲビート) |
Iiflussgebiät
(イーフルスゲビエト) |
撤退する | sich zurückziehen
(スィヒ・ツリュックツィーエン) |
sich zruggzie
(スィフ・ツルックツィエ) |
戴冠 | Krönung
(クレーヌング) |
Krönig
(クレニク) |
帝国 | Kaiserreich
(カイザーライヒ) |
Kaiserriich
(カイセルリーフ) |
入国 | Einreise
(アインライゼ) |
Iireis
(イーライス) |
参考ホームページ
スイス歴史辞典:ハプスブルク家
https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/019506/2007-10-16/
シェーンブルン宮殿文化運営事業財団:ハプスブルク家の世界
アールガウ博物館 ハプスブルク城
https://www.museumaargau.ch/schloss-habsburg
アールガウ博物館 ケーニヒスフェルデン修道院
https://www.museumaargau.ch/kloster-koenigsfelden
ムーリ修道院オフィシャルサイト
https://www.klosterkirche-muri.ch/?mid=34
スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
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