食の名産地アッペンツェル
目次
皆様は「アッペンツェル」という名前を聞いたことがありますか?
ピンと来ない方が多いでしょうが、日本でチーズ売り場に足を運ぶと、必ず登場する名前のひとつですし、世界のビールを取り扱う酒屋でも稀に目にすることがあります。
チーズやお酒など複数の商品で使用されている名前ですが、それが実はスイスの地名であることを知っている人は少ないのではないのでしょうか?
そこで、今回は世界的にその名が知られているアッペンツェルをご紹介させていただきます。
ザンクト・ガレン修道院の管理下で発展した農村地帯
アッペンツェルはスイス北東部に位置するアッペンツェル・インナーローデン準州(Kanton Appenzell Innerrhoden)の州都で、8世紀以降にアレマン人が荒野を居住地として開拓したのがその起源とされています。
そして、ほぼ同時期にザンクト・ガレン(St. Gallen)の修道院長が支配地域の拡大を図り、現在のアッペンツェル市に農民が農作物や家畜を税として納めるための蔵を建てます。
したがって、当時の記録ではラテン語で修道院長の蔵を意味する「アバツェラ」(Abbacella)の記載があり、これがアッペンツェルという地名の由来になったのです。
修道院による管理の下、アッペンツェルは徐々に豊な土地となり、人口も増加し始めたため、1071年には現在も市のシンボルの一つである聖マウリツィウス教会(Kirche St. Mauritius)が建設されます。
その後も市民の生活は潤っていましたが、度重なる飢饉や疫病の影響で修道院に対する不満は高まり、1401年にはついに反乱が勃発します。アッペンツェルを含む周辺地域の農村は武力で次々と修道院の管理体制を崩し始めます。
反乱を食い止めるため、ザンクト・ガレン修道院はハプスブルク家に支援を要請しました。
これを踏まえ、アッペンツェルは1411年にアイトゲノッセンシャフトと同盟を結び、最終的に修道院からの独立を果たすことになります。
その後、アッペンツェルはアイトゲノッセンと行動を共にし、1513年にはアイトゲノッセンシャフトの13番目の州として認められます。
また、直後に起こった宗教改革ではアッペンツェル内で地域同士が対立し、解決の目途が立たなかったことから、1597年にアッペンツェル州は主にカトリックだった中心部とプロテスタントの外縁に分けられました。
そのため、現在のアッペンツェル市が位置する中心部では閉鎖的な国家体制が確立し、近代化が遅れたこともあり、農業や刺しゅうなどの内職が主な産業となりましたが、19世紀以降は徐々に観光業も盛んになって独特な文化を持つお洒落な田舎町として知られるようになりました。
独自の建築様式を誇るアッペンツェル民家
アッペンツェルは多くの観光客からお洒落で可愛らしい町と評価されますが、その大きな要因は市内に数多く点在する民家の独特な建築様式にあります。
アッペンツェルは1560年に大火災に見舞われたものの、その後はこれといった災害などの被害を受けることがなかったので、現在も古い建物が多数現存しています。
また、農業が盛んな地域だったこともあり、大半の民家はファームハウスを基本とし、それを独自に工夫しています。
既に申し上げたように、刺しゅうなどの内職が主な産業だったアッペンツェルでは室内での作業をしやすくするため、南向きのリビングにできるだけ多くの窓を取り付けているのが特徴的です。
また、ベランダなども光を遮ることからあえて設置されていません。
さらに、外壁もカラフルで見た目が綺麗なのですが、これも実は木造建築を害虫から保護することを目的としており、虫にとって魅力的でない色を選択した結果なのです。
特に赤く塗装されている家に関してはその効果をさらに高める牛の血から作ったペンキを使用しています。
そして、通常の民家では直線になっている破風も、バロック様式を取り入れたアッペンツェルの民家では丸みを帯びていたり、角が付いていたりして、装飾が施されているものもありますので、他の地域では見ることのできない実にユニークな街並みとなっています。
現在も続く青空投票の「ランツゲマインデ」
アッペンツェルを語る上で忘れてはいけないのがなんと言っても「ランツゲマインデ」(Landsgemeinde)です。
ランツゲマインデは毎年1度、特定の曜日に町の中心広場で開かれる住民の集会で、州に関する重要な議題について挙手で住民投票を行う、いわゆる青空投票のことです。
この制度は直接民主制の先行モデルとしてスイスの複数の州に存在していたのですが、アッペンツェル・インナーローデンならびにグラールス(Glarus)の2州では現在も投票箱や昨今のインターネットでの投票を行わず、この伝統的な手法を用いています。
アッペンツェルでこの制度が導入されたのは1378年とされており、現在は毎年4月の第4日曜日にランツゲマインデ広場(Landsgemeindeplatz)でこのランツゲマインデが開催され、国内外から多くの観光客が集まるお祭りのような大イベントになっています。
また、投票の対象となる議題は法改正、予算、税金から州議員の投票まで様々で、それらは全て住民の賛成多数で可決または否決されるため、住民が政治を直接左右するといった民主的観点からとても素晴らしい制度なのです。
一方、閉鎖的な国家体制を持っていたアッペンツェルでは住民の一般的な価値観が少々時代遅れであることから、近代化に歯止めが掛かっているとの批判もあります。
例えば、女性にも男性と同等の参政権がアッペンツェルで導入されたのはなんと1990年のことで、日本でいうと時代が平成に変わってからもそのような状況が存在したのはとても信じがたいですよね?
しかも、正確に言うと、女性の参政権は男性がランツゲマインデで否決し続けたため、女性たちが、これはスイスの連邦憲法に反すると訴えた結果、スイス連邦裁判所の決定によって強制的に導入された内容であるのも驚きです。
スイスを代表する食材の宝庫
そんな保守的なアッペンツェルですが、前出の通り、その地名が入った食材が世界中で知られている食の名産地でもあるのです。
中でも最も知名度が高いのはやはり半硬質チーズの「アッペンツェラー」(Appenzeller®)と言えます。
ハーブを使用したマイルドで独特な香りを持つこのチーズの製造法は遅くとも13世紀に確立していたとされ、現在では数多く存在するスイスチーズの中で製造量も輸出量も4位である代表的なチーズなのです1。
また、チーズ以外にも「アッペンツェラー・ビール」(Appenzeller Bier)のブランドで販売されている数々のビールがあります。
スイス人は通常住んでいる地域の醸造所が製造しているビール以外は飲まないことが多いのですが、中には全国的な人気を誇るものもあり、アッペンツェラー・ビールも数十年前からその仲間入りを果たしただけでなく、世界に進出するまでに至りました。
特にラガービールの「クヴェルフリッシュ」(Quöllfrisch)は2017年のスイス・ビールアワード(Swiss Beer Award)で金賞を受賞した4種のひとつであり、今や五本の指に入る実績を持っています。
しかし、アッペンツェルはビールだけでなく、スイスナンバーワンハーブ酒の「アッペンツェラー・アルペンビター」(Appenzeller Alpenbitter)の産地としても有名です。
このハーブ酒はゲンチアナ、ジュニパー、アニスおよびミントを原材料として1902年に誕生して以来、瞬く間に全国で広まり、今では「風邪をひいたらアッペンツェラーを飲むと一発で治る」と噂されるなどその存在を知らない人はいないほどです。
このように、アッペンツェルは保守的で閉鎖的でありながらもスイスを代表する特産品の数々で世界を股に掛けるビジネスを展開するなど、イメージとのギャップや意外な一面が多いのですが、秘境のような静かな田舎町です。
風情あるその町を歩くだけでも楽しいのですが、民芸品や民族衣装もまたどこか他の町とは異なる雰囲気を感じさせてくれますので、ひと味違うスイスを体験できるのが最大の魅力です。
また、チーズ、ビール、ハーブ酒などの特産品をご紹介させていただきましたが、それらはほんの一部に過ぎませんので、皆様も観光に訪れた際は是非アッペンツェルの新たなご当地グルメを発見してみてください。
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
1出典:NPO法人スイツァランド・チーズ・マーケティング社、2018年度の営業報告書
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
修道院 | Kloster
(クロスター) |
Chloschter
(フロシュテル) |
農民 | Bauer
(バウアー) |
Puur
(プール) |
農作物 | Feldfrüchte
(フェルトフリュヒテ) |
Fäldfrücht
(フェルトリュフト) |
ラテン語 | Latein
(ラタイン) |
Latiin
(ラティーン) |
教会 | Kirche
(キルヒェ) |
Chille
(ヒレ) |
血 | Blut
(ブルート) |
Bluet
(ブルエト) |
女性の参政権 | Frauenstimmrecht
(フラウエンシュティムレヒト) |
Fraueschtimmrächt
(フラウエシュティムレフト) |
裁判所 | Gericht
(ゲリヒト) |
Gricht
(クリヒト) |
ハーブ | Kräuter
(クロイター) |
Chrüüter
(フリューテル) |
ビール | Bier
(ビアー) |
Biär
(ビエル) |
参考ホームページ
- アッペンツェル・インナーローデン州オフィシャルサイト
- アッペンツェル・インナーローデン州観光庁オフィシャルサイト
- スイス歴史辞典:アッペンツェル州
- アッペンツェラー(チーズ)オフィシャルサイト
- アッペンツェラー・アルペンビターオフィシャルサイト
- アッペンツェラー・ビールオフィシャルサイト
スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
Comments
(0 Comments)