
発音のバリエーション
目次
前回はお休みを頂きました。南ドイツはまだまだところどころ寒い日もありますが、それでも春に向かっているような空気を感じます。季節の変わり目ではありますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
今回は発音にフォーカスしたテーマでお送りしたいと思います。
突然マニアックに聞こえるかもしれない質問からスタートしますが、皆様にはドイツ語に限らず好きな発音はありますか?(好き、というと抽象的すぎるかもしれませんが。)
「この発音は自分にとってはドイツ語らしく聞こえて好き」だったり、「フランス語の多様な鼻音が好き」だったり、「好き」の判断基準は様々だと思います。
私がとりわけドイツ語の中で好き、というか非常に興味を強く感じる発音はタイトルにもあるとおり、例えばドイツ語の一人称単数主格のichや、形容詞schwierig、前置詞のdurchなどに見られる、ドイツ語のつづりで言えば“g”または“ch”の発音です。
そもそもヨーロッパの言語の中に見られる各口蓋垂の発音分布と各言語間における関係性は、私が大学で音声学や音韻論を学んだ時にそのバリエーションや推移についてロジカルだなあと感じることが多々ありました。
そして特にドイツ語における発音に対する関心がとりわけ強まり、日々観察するようになったのが、ドイツで生活を始めてから、もっと言えば南ドイツに引っ越してきてからでした。
今日は関連する発音のバリエーションについて取り上げたいと思います。
南ドイツの „durch“
南ドイツの中でも私の住むアウクスブルクやミュンヘン、そしてオーストリアのドイツ語で特に私の頭にびっくりマークが三つくらい出てきたのが前置詞durchの発音でした。
学校や大学でドイツ語を学んだ時、この単語の発音は少し混乱した記憶があります。
綴り字-chの発音のルール(ただし標準変種におけるもの)として、chの前が a, o, uでない、または-chenに関しては[ç]と発音し、逆にこの三つの母音がchの前にある場合は軟口蓋摩擦音の[x]になると学びます。
そんなこと言ったら前置詞durchはchの直前がrで子音なので「どうなっちゃうの?」と当時思っていたのですが、発音の授業でネイティブの先生に聞くと、このchに関しては硬口蓋摩擦音である[ç]として発音されていました。
そういうものなのだなと記憶してから十数年が経った頃、オーストリアのKurz前首相のスピーチをニュースで聞くと、彼はdurchのchを軟口蓋摩擦音で発音していたのでした。
「オーストリアではそんな発音になるのかぁ」とくらいにしか思っていなかったのですが、それからまた数年後に南ドイツへ引っ越してくると、ご近所さんも新しくできた友人もdurchの発音が[x]だったのでした。
地域変種の連続性の観点からいけば、オーストリアドイツ語と共通の発音であること自体は別に何も不思議なことではないのですが、学部時代に自分が混乱した記憶が蘇りつつ、ドイツ語の発音における地域的な多様さに再び気づかされ、よくよく考えてみれば軟口蓋摩擦音で発音するのは楽だなあとも感じるようになりました。
ときどき自分が知らないうちにdurchを南ドイツ式に発音していることも最近夫に指摘されたのですが、発音が楽だと感じたことで身につきつつあるのかもしれません。
デュッセルドルフで生活していた頃の名残
その一方で、長くデュッセルドルフに住んでいたことや、夫の家族がベルリンやハンブルク周辺の出身であるということもあって、どちらかというと北部のドイツ語の特徴があるよね、と言われることは多いのですが、その名残として例えばTagの“g”はどうしても[k]ではなく[x]と発音しがちです。
その根底には「発音が楽」というのがあるのかもしれません。
言語変化について考える時によく言われるのが、Sprachökonomieというものです。
これは話し手と聞き手(あるいは書き手と読み手)の間で行われるやりとりの中で、主に話し手または書き手である発信者が相互理解できる範囲内で発話や書かれるメッセージの言語的な負担を減らす、というものですが、要するに短縮形を使ったり、発音時の負担を変えるためにある発音を削ったりするというようなことです。
これはどの言語にも見られるもので、例えば日本語であれば、スラングではありますが、「ありがとうございます」が「あざーす」となったりすることなどがこれに当たります。
標準変種では通常Tagという単語ではaと発音した後に[k]の発音をするべく軟口蓋を一瞬閉じて破裂音を作ることになります。
軟口蓋を閉じるよりもただスッと摩擦させて[x]と発音してしまった方が発音時のエネルギーを節約でき楽できると、私個人としては思っています。
そして、この[k]と[x]のような関係性は、実は別のヨーロッパの言語の中でも近縁言語間で見られるようです。
ケルン周辺での[ʃ]の発音
最後にもう一つ、これは私がドイツに住み始めて以来観察を進めている発音を紹介したいと思います。
それが、ケルン周辺の出身者に主に見られる綴り字-sch、発音記号でいうと[ʃ]です。これはどちらかというとドイツ語らしい綴り字なのかもしれません。ドイツ語を勉強していたり普段ドイツ語ばかり使っていると、英語を書こうとした時にEnglishと書くべきところをEnglischとしてしまったりするという経験をしたことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
それくらいドイツ語の中では結構インパクトのある綴り字だと個人的には思っています。
ある日、ケルン出身の友達と話していた時にこのschの発音の音質が、私が知っている音質と若干異なることに気づきました。
イディオレクトやその人が生まれ持った発音器官の特徴によるものである可能性ももちろんあったので、ケルンやケルン周辺出身の別の友人や同僚との会話の中でも少し気にしてみることにしました。
すると、ほぼ全員から私が気になった音質の特徴を確認することができたのでした。
どんな特徴かというと、[ʃ]というのは後部歯茎摩擦音と言われる音なのですが、ケルン周辺地域ではどうやら後部歯茎というよりは硬口蓋の前部で摩擦音が起こっているように聞こえるのです。
日本語の「あし(足)」の「し」(sh-i)の子音部分とも少し似ているけれど、それよりは後ろで舌と摩擦している、そんなような音です。
単語中の調音環境によっては先述の[ç]にも聞こえなくない。
つまり[ʃ]と[ç]の間の音なのです。これに気づいた時には特に語尾の-schにのみ注目していたので、語中や語頭のschについてはわからないのですが、語中や語頭だと後に母音や子音が続くことになるので発音器官の調音環境が語尾とは異なるため、そこまで特徴的には感じられないのかもしれません。
音声学の実験で使用されるような機械を使ってみるとわかるのかもしれないです。
どうやらケルン周辺地域ではこの発音がされるようだ、と自分の観察結果から導き出したのですが、今度は逆の方法でそれを確認することができる機会がありました。
新型コロナウイルス感染症が猛威を奮っていた数年前、ドイツはロックダウンも起こり、ほぼ毎日ニュースでKarl Lauterbach保健大臣の報告や会見を聞いていました。
すると彼の発話の中にもこの発音の特徴が見られたのです。
ということは、彼はもしかしてその辺りの出身か、その辺りで長く過ごしたのかもしれないな、と思い調べてみると本当にその通りで、出身はBirkesdorfというケルンとアーヘンの間にあるデューレン(Düren)群の町なんだそうです。
発音やイントネーションというのは日本語でも非常に多様であり、言語の多様性を大きく支えている要素だと私は思っています。
そして私たちは外国語であろうと母語であろうと、使っていくうちにその多様な特徴を身につけ自分のものにしていくことになります。
そんな多様性に触れ、観察したり、さらに調べたり、自分が吸収していることに気づいたり気づかなかったりという私たちの言語生活の面白さを、今回の記事でお伝えできてたのなら嬉しいです。

日本でドイツ語言語学を専門に修士号をとったのち、ドイツへやってきて7年が経過しました。ドイツ語と日本語を日常で使いながら生活する中で気づいたことばに関するお話を、言語学の専門知識を織り交ぜながらこのブログの中でお伝えできればと思います。
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