世界各地に点在する小スイス
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日本国内でもそうですが、世界各国を訪れると中華街を始め、別の国の人々が集結している場所があったりしますよね?
代表的なものとしてはアメリカのロサンゼルスにある日本人街「リトルトーキョー」(Little Tokyo)やニューヨークの「リトルイタリー」(Little Italy)などが挙げられますが、アメリカ以外にも同様な町やコミュニティがたくさん存在します。
そして、そのような集団を形成する人達といえばその人口の多さから中国人のイメージが強いものの、世界各地を旅してみると他の国の人や民族によるものも決して少なくありません。
とはいえ、皆様はどこかの国でスイス人が大勢在住する「スイス人街」があるとの情報を耳にしたことはありますか?
現在の情報社会であればそれらしき話題を聞いたことがあるという方がいても不思議ではないものの、噂すらないのが現状です。
しかし、詳しく調べてみるとそれらが全く存在しないわけではないことに気付き、実は世界の意外な所に「小さなスイス」があることが分かります。
したがって、今回はそんな想像もしない世界各地に点在する「小スイス」をご紹介いたします。
厄介払いで国外への移住を余儀なくされたスイス人たち
特定の国の住民が国外で集団生活をしてひとつの区域を形成している理由や背景に関しては、大航海時代の植民地化に伴う集団移住、他国の占領や開拓のための出向、紛争地帯からの集団避難、そして生活または将来への不安を解消する、もしくは出稼ぎに行くための国外移住など実に様々です。
とはいえ、スイスに関しては内陸国であるが故に、大航海時代における植民地化に乗り出すこともなければ、戦争によって他国を占領したり、領土を奪われて避難したりするといった経験もございません。
つまり、スイス人には集団で国外移住をする具体的な動機がなかったので、国外で自分たちが住むための町を築くこともなかったと考えるのが自然です。
しかし、前回のハイマトオルトに関する記事でもご紹介したように、スイスの自治体はそれぞれの住民に生活保護を提供する義務を負っていたため、貧しい住民は財政を圧迫する厄介者と見なされることも少なくありませんでした。
そして、長期的に自治体の「重荷」とならないよう、生活保護受給者には示談金や旅費を支払って、国外に移住してもらうよう説得することも珍しくなかったのです。
特に17世紀以降は、大西洋横断の費用を負担してまでアメリカ大陸への移住を促した自治体も多く見受けられました。
また、プロイセンやスペインは、人口の少ない内陸部を開拓する目的で移住者を積極的に支援する政策を取ったことが知られており、19世紀にはロシアも同様に黒海沿岸部における移住者の定住を推進したのです。
こういった受け入れ側からの後押しもあって、自治体から厄介払いされたスイス人のみならず、スイスの植民地や宣教師の活動拠点を作るなどの空想的な目的を抱いた人たちも次々と誕生し、大勢の移住希望者が出ることになりました。
正確な数字は不明ですが、当時のスイスには旅行会社のように移住希望者のために現地までの船や道中の宿泊先を手配する業者も複数確認されていることから、国外への移住を希望するスイス人は相当数いたことが窺えます。
そして、このような人々の中には移住先を開拓して市町村を築いた者も多数いて、そういった場所を「スイスの植民地」または「スイスの入植地」などと称するようになりました。
アメリカには数えきれないほどの小スイスがある
前出の通り、多くのスイス人移住者が行き先として選んだのはアメリカ大陸で、その大半の最終目的地となったのがアメリカ合衆国でした。
そのような人々が本国を離れて新たな場所で集落を築いた19世紀初頭には当然ながらスイス人村らしい要素で溢れていたのですが、200年以上も経過した現在ではそれを「小スイス」と認識させる特徴は殆ど残っていないのが現状です。
したがって、スイス人がその土地に持ち込んで今日もスイス文化として受け継がれている風習や行事などを除けば、部外者にはその場所が元々「スイス人が多く移住してきた地」であったという発想すら沸きません。
とはいえ、地名を確認すればその殆どがスイスと何等かの関係を持っているのが垣間見え、歴史を辿れば実際にスイス人が作った町であることが分かります。
例えば、カンサス州(Kansas)の北部にある「ズリック」(Zurich)やウィスコンシン州(Wisconsin)の南部に位置する「ニュー・グララス」(New Glarus)は、その地名のスペルを見ればスイスの都市名と同一であるのが明らかです。
また、ノースカロライナ州(North Carolina)にも「ニュー・バーン」(New Bern)という町が存在し、これもスイスの連邦都市である「ベルン」(Bern)に由来するのは言うまでもありません。
しかも、興味深いことに「ニュー・バーン」では、1893年にとある薬剤師が炭酸飲料を開発し、それを1898年に「ペプシコーラ」(Pepsi-Cola)と改名して全国展開したことで有名な場所でもあります。
これは皆さまもよくご存知の世界的に著名な「ペプシ」(Pepsi)のことですが、それがアメリカにおけるスイス人移住地から産まれた物だったのは意外と知らなかったのではないでしょうか?
他にも、インディアナ州(Indiana)南東部に「ヴィーヴィー」(Vevay)と呼ばれる小さな村があり、これはレマン湖畔にある都市「ヴェヴェイ」(Vevey)がもとになっている地名です。
スイスの地理に関する知識がないと分かりづらい一方、当該村がとてもスイスらしい名前の郡の郡庁所在地でもあることを考慮すれば、誰しもがスイスとの関係性があることに気付きます。
その名前とは何とまさかの「スウィッツァランド郡」(Switzerland County)なのです!
南米にもスイスのルーツが残っている町が点在する
このように、無限の可能性の国アメリカでは、多くのスイス人が新たな人生を切り開いたことが窺えますが、ブラジルやアルゼンチンといった南米の国々にも同様に大量の移住者が作った小スイスが存在します。
その代表例ともいえるのがリオデジャネイロ州(Estado do Rio de Janeiro)に位置する人口約19万人の「ノヴァ・フリブルゴ」(Nova Friburgo)です。
この都市は1819年にスイスのフリブール市(FribourgまたはFreiburg)を出身地とする約1600人の移住者が築いた場所で、ブラジルにおいてポルトガル語以外が主言語として使用された最初の町でもあります。
一方、アルゼンチンも19世紀後半に数万人のスイス人の移住先となり、多数のスイス人村があったことで知られています。
とはいえ、ベルン出身の移住者が作ったコルドバ州(Provincia de Córdoba)の「ヴィラ・ベルナ」(Villa Berna)を除けば、その大半に関して現在は地名が変わっており、時代と共に同化していったこともあって趣が殆ど残っていません。
それでも興味深いことに、元々スイス人の移住地だった地域で現地住民の名前を尋ねると予想もしないスイスらしい名字の持ち主が非常に多いことがわかります。
また、サンタフェ州に属する町である「サン・ヘロニモ・ノルテ」(San Jerónimo Norte)では、なんとスイス人がその地に持ち込んだ一昔前のヴァレー州方言が今日も日常的に話されているという事実があることに驚かされます1。
それ以外にも、ウルグアイのコロニア県(Departamento de Colonia)に「ヌエバ・エルヴェスィア」(Nueva Helvecia)という町があり、こちらもスペルを見ればスペイン語で「新スイス」を意味することから、元はスイス人の移住地であったことが分かります。
町の歴史を詳しく調べると、「ヌエバ・エルヴェスィア」は1862年にスイス人が築いた集落で、チーズ作りなど、様々なスイス文化をウルグアイで広めた発信地だったとされています。
意外な理由や目的で誕生した様々な小スイス
最大の移住先がアメリカだったものの、スイス人が移住地を築いたという実績は他の大陸にも存在します。
既に申し上げたように、移住者の中には厄介払いに遭った人達のみならず、別の理由で自ら移住を決断した者もいました。
例えば、19世紀後半には金を掘り当てようと多くの外国人がオーストラリアのビクトリア州(Victoria)に位置する有名な鉱泉保護区である「ヘップバーン・スプリングス」(Hepburn Springs)を訪れました。
その中にはスイスのイタリア語圏に属するティチーノ州(Cantone TicinoまたはKanton Tessin)からの労働者も多数いて、金の代わりに温泉を掘り当てて、それに故郷への思いを込めて「ロカルノ・スプリングス」(Locarno Springs)という地名を付けたのです。
今となっては当該地域にある複数の温泉のひとつに過ぎない一方、それらのスイス人が居住地としていた地区には、当時建てられたマカロニ工場などが現在も残っており、オーストラリアでありながらもあらゆる所でイタリア語やスイスのイタリア語圏らしい痕跡を目の当たりにすることができます。
また、フランスの植民地であったアルジェリアでは、フランスからの積極的な働きかけによってスイスが本当の意味での植民地化を実施したケースも見受けられます。
というのも、ジュネーブ州(Canton de GenèveまたはKanton Genf)のとある民間企業が、「セティフ」(Sétif)という都市で膨大な土地購入と設備投資を行い、職員を現地に派遣して植民地形成を試みたのです。
これは当初スイスの植民地化の成功例として語り継がれたのですが、植民地という位置づけだったが故に、第二次世界大戦後のアルジェリアによる独立運動の際にそれを維持するのが困難となってしまいました。
同様に、かつては実在しながらも様々な歴史的背景によってその形跡がほぼ消し去られてしまった小スイスもあり、中でも有名なのがクリミア半島に作られた「ツューリヒタール」(Zürichtal)です。
このスイスのチューリッヒに因んだネーミングの町は、1848年に当時のロシア皇帝が黒海沿岸地域を開拓したい思いで、スイスを含む西欧からの定住者を募集して誕生した複数の町のひとつでした。
しかし、ロシア帝国が崩壊し、ソビエト連邦が発足すると状況が一変し、1941年には全ての住民がカザフスタンに強制移住させられ、その際に地名も「ゾロテ・ポレ」(Zolote Pole)に変更されたことで、今ではその村のルーツがスイスであることすら殆ど分からなくなっています。
このような感じで、世界のあらゆるところにスイス人街が点在し、もしくは過去に存在していましたが、皆様はどのように思いましたか?
今回の記事ではほんの一部の小スイスをご紹介したものの、人口が少ない小国に数えられるスイスとしては予想以上に多くの移住地を作っていたことに驚かれた人も少なくはないでしょう。
とはいえ、その大多数においてはスイス色が時代と共に失われ、今では地名にその起源に関するヒントが得られる、もしくは歴史的な建造物にその痕跡が僅かに残っているに過ぎませんので、横浜の中華街や神戸の北野異人館街のような異国の雰囲気が漂う場所を期待してはいけません。
その反面、観光地化されたわざとらしさが一切ないので、非常に朴訥で説得力もある味が出ていると言えます。
したがって、皆様も今後世界を旅することがあれば小スイスのみならず、他の民族が移住して形成した様々なコミュニティもあることに注目してみては如何ですか?
そうすると思いもよらない異文化との交流もあったりして、今までに知らなかったことや未経験なことにも出会えるかもしれませんよ。
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
1出典:スイス放送協会「アルゼンチンのパンパのど真ん中でヴァレー州方言」:
https://www.swissinfo.ch/ger/kultur/walliser-dialekt-mitten-in-argentiniens-pampa/2283682
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
コミュニティ | Gemeinschaft
(ゲマインシャフト) |
Gmeinschaft
(グマインシャフト) |
想像 | Vorstellung
(フォアーシュテルング) |
Vorschtellig
(フォルシュテリク) |
大航海時代 | Entdeckungszeitalter
(エントデックングスツァイトアルター) |
Entdeckigsziitalter
(エントデッキグスツィートアルテル) |
植民地化 | Kolonialisierung
(コロニアリスィールング) |
Kolonialisiärig
(コロニアリスィエリク) |
紛争地帯 | Konfliktgebiet
(コンフリクトゲビート) |
Konfliktgebiät
(コンフリクトゲビエト) |
入植地 | Siedlung
(スィードルング) |
Sidlig
(スィドリク) |
産物 | Erzeugnis
(エアーツォイグニス) |
Erzügnis
(エルツューグニス) |
現地住民 | Einheimische
(アインハイミシェ) |
Iiheimischi
(イーハイミシ) |
マカロニ | Makkaroni
(マッカローニ) |
Magrone
(マグローネ) |
投資 | Investition
(インヴェスティツィオーン) |
Inveschtition
(インヴェシュティツィオーン) |
参考ホームページ
スイス歴史辞典:スイスの植民地:
https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/007989/2011-10-13/
ブルーニュース:「国外にも存在するスイスの地名」
https://www.bluewin.ch/de/news/vermischtes/diese-schweizer-orte-gibt-es-auch-im-ausland-319896.html
スイス国立博物館:「黒海に面した2つのスイス人村」
https://blog.nationalmuseum.ch/2022/03/zwei-schweizer-doerfer-am-schwarzen-meer/
スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
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