スイス人が抱えている栄養不足問題

 

日本で生活していて、自身がスイス出身であることを明かすと、「景色が素晴らしい国」や「一度は行ってみたいところ」などスイスに対する憧れを述べる方が多いような印象を受けます。

確かにスイスは空気もキレイで他ではなかなか見ることのできないアルプスならではの大自然が広がってスイス人自らもその美しさに圧倒されるぐらいです。

そのため、旅行先としての人気も非常に高く、可能であればスイスに住みたいと思っている方も少なくはありません。

特に、アウトドアが好きだったり、山のアクティビティが趣味だったりする人にとってスイスはハイキングやウィンタースポーツを始め、パラグライダーからベースジャンピングまであらゆる形でその大自然を満喫できる楽園のような場所です。

しかし、スイスはアルプス山脈に面している内陸国と言う地理的条件やその環境から実はあまり知られていない様々な社会問題を抱えており、中には政府が積極的に対策を講じているほど深刻なものも存在します。

したがって、今回は実際に住んでみないとなかなか分からないスイスにおける生活上の問題についてご紹介したいと思います。

 

ヨウ素欠乏症

 

スイスで生活する上で最も気を付けなくてはならない問題は何と言ってもヨウ素欠乏症です。

人間にとって必須元素のひとつであるヨウ素は特に海産物に多く含まれ、海のない内陸国は積極的に魚や魚介類を食べる習慣がない限り、必然的にヨウ素欠乏に陥る危険性があります。

一応、ヨウ素は山岳地帯にも鉱物資源に含まれることがありますが、スイスに関しては最後の氷河期でアルプス山脈を覆っていた大量の氷河が雪解け水となって地中のヨウ素を徐々に洗い流していった背景があり、全くと言っていいほど存在しません。

したがって、スイス人は数百年にわたって若い男性の首が異常に膨れ上がる症状や、矮小または難聴などの重度の障害を持った子供が多く生まれることに悩まされてきました。

スイス以外にも同様な症状が見受けられている国はあったものの、スイスでは一時青年の3人に1人においてテニスボールを喉に詰まらせたかのような腫れた首が確認されるなど、その発症頻度が不自然に高かったのです。

今となってはそれらの現象が甲状腺腫ならびにクレチン病によるものであると分かっていますが、当時は原因が不明なため治療もなく、国民の健康状態は悪化する一方でした。

やがて、20世紀後半に入ると、とある医師がそれらの症状は甲状腺がヨウ素不足を解消しようとして引き起こしている病気ではないかとの仮説を立て、毎日食事と共に摂取する食塩にヨウ素を添加すれば改善が見込めるのではないかと考えたのです。

そこで、ツェルマット(Zermatt)で診療所を営んでいた別の医師がヨウ素添加食塩を村人に配布し始めたところ、しばらくしてその症状が全く見られなくなりました。

また、ヘリサウ(Herisau)の病院に勤めていた外科医も州政府に対してヨウ素添加食塩の製造販売を行政側で管理するよう求めたのです。

その結果、僅か1ヶ月で食塩にヨウ素の添加を義務付ける法律が整備され、当該地方で甲状腺腫を患う人はいなくなりました。

この結果を踏まえ、1922年にスイス連邦政府の健康庁は全加盟州に食塩を供給するスイス製塩所(Schweizer Salinen)にヨウ素の添加を要求することにしたのです。

それ以来、スイスでは全ての食塩にヨウ素が含まれている状態での販売が当たり前となり、100年経った現在、甲状腺腫ならびにクレチン病は完全に消失したと言われています。

 

 

25マイクログラムのヨウ素が添加されているスイスの食塩

 

 

ビタミンD欠乏症

 

続いて申し上げておきたいスイスにおける生活上の問題も栄養不足に関するものですが、それはスイスの自然環境に起因しているため、解決方法が非常に難しいビタミンD欠乏症です。

ご存知の通り、ビタミンDは他のビタミンと同様に生きていく上で不可欠な栄養素(正確にはホルモン)であり、それが欠乏することで特に乳幼児や小児の間で骨格異常と骨の変形を始め、様々な症状を引き起こす病の原因となります。

ビタミンDは食料から摂取することも可能であるものの、通常の食事で1日に必要な摂取量に達することはなかなか難しいです。

その代わり、日光浴によって体内でビタミンDを生合成することが可能なことから、年間を通してよく太陽に当たっている人は特に欠乏症になることはありません。

しかし、スイスでは暖かい季節には比較的多くの太陽光を吸収する一方、11月から3月にかけての冬場は日照時間が極端に減少し、紫外線も弱くなっているだけでなく、あまりの寒さに皮膚の殆どを覆っている服装でしか外出しないというのが現状です。

その結果、スイス人の60~70%は毎年寒い季節に入るとビタミンD欠乏症となり、それに伴う健康上の問題は後を絶ちません。

スイス健康庁の調査によると、スイス人が冬でも十分なビタミンDの摂取量を確保するためには6時間以上も日光浴をする必要があるとしていますが、場所によってはそもそもそれほどの日照時間に達しないことや天候の影響も考慮すればそれは不可能であるとの結論に至っています。

したがって、サプリメントでビタミンDを補うこと以外に対策案はないとしているのです。

健康食が普及している現代ではあらゆるサプリがお手頃な価格で購入できるので、個人が各々で欠乏症を防ぐことは可能ですが、一昔前まではそのような便利なものは存在していませんでした。

そのため、スイス人の間では戦後の日本と同様にビタミンDが豊富に含まれる「肝油」を毎朝スプーン一杯飲むという習慣が根付いていました。

 

肝油ドロップ

 

しかも、液体状の肝油は臭いし味があまりにも強烈なので、飲むことを拒んだ子供も多いことから、身体を押えられて強制的に飲ませられたという経験を持つ人も少なくありません。

現在はより飲みやすいゼラチンカプセルタイプの肝油ドロップも存在し、この昔の習慣を継続している家庭はほぼないに等しいのですが、私を含め、それが当たり前だった世代には、今でも「肝油」という言葉を耳にするだけで幼少期の嫌な思い出が蘇ってぞっとする人は多々います。

 

 

 

葉酸欠乏症

 

ヨウ素やビタミンDほど深刻ではないものの、スイスではビタミンB欠乏症もまた決して忘れてはいけない社会問題となっています。

ビタミンBは一般的に「葉酸」とも呼ばれ、それが不足すると造血機能の異常に起因する貧血を始め、神経障害や脳機能障害までをも引き起こす可能性があります。

さらに、葉酸は正常の赤血球形成および細胞の遺伝物質であるDNAの合成にも必要不可欠であることから、妊婦が葉酸欠乏症になると乳児に脊髄または脳の先天性異常が生じるリスクが高まるのです。

欠乏症は葉酸を多く含むレバーや葉野菜を毎日一定量摂取することで回避できますが、加熱したり長期保存したりすると酸化が進み、大半の葉酸が失われていきますので、新鮮な野菜をなるべく調理せずに食べなくてはなりません。

また、大量の飲酒によって葉酸の吸収および代謝が妨げられることもあって、現在のスイス人の食生活では1日に必要な摂取量を確保できていないのが現状です。

そのため、スイスでは男女を問わず葉酸欠乏症が警鐘を鳴らすレベルに達しており、スイスの健康庁は2000年に対策案を講じると共に、特に胎児の神経管閉鎖障害を予防する必要性が極めて高いと判断しました。

そこで、元々葉酸を含み、時間が経過してもその含有量が減りにくいクラッカーやクリスプ・ブレッドにおいて葉酸を高濃度化する計画を開始したのです。

その後、食料品メーカーの協力も得て、既に200以上の食料品が葉酸を高濃度化した状態で販売されており、その数は年々増えています。

この影響により、スイス人の葉酸欠乏症は減少傾向にあるものの、現在も健康庁の継続的な監視が不可欠なだけでなく、妊婦に関しては通常以上の量を摂取する意識の向上に繋がる様々な取り組みまで実施しているのです。

 

スイスで葉酸が高濃度化されている食料品のひとつクリスプ・ブレッド

 

今回の記事を読んでスイスに対する印象が変わったという方もいるのではないでしょうか?

中でもスイスでの暮らしに憧れを抱いていた人にとっては少し衝撃的な内容だったかもしれません。

とはいえ、住んでみて実感するよりも、事前にそのような情報を知っていた方が心の準備もしやすいですし、自身で備えや予防法を考えるのも容易になります。

また、社会問題に発展しているだけあって、スイス政府も既にそれなりの対策を講じていることにも言及しましたが、健康管理は結局のところ各自で行わなくてはならないことを忘れてはいけません。

特に、妊婦や成長期の子供は栄養不足になりがちなだけでなく、栄養不足の結果として受ける影響も深刻なものになりやすいため、より注意が必要です。

したがって、スイスでの生活や子育てにおいてそういった点を念頭に置いて対策を講じておけば特に懸念することはありませんので、将来的にスイスに住むことを予定されている方は是非今回の記事をご参考にしていただければ幸いです。

では

Bis zum nöchschte mal!

Birewegge

 


今回の対訳用語集

日本語 標準ドイツ語 スイスドイツ語
社会問題 soziale Probleme

(ゾツィアーレ・プロブレーメ)

soziali Problem

(ソツィアーリ・プロブレーム)

深刻 ernsthaft

(エルンストハフト)

ernschthaft

(エルンシュトハフト)

海産物 Meeresfrüchte

(メーレスフリュヒテ)

Meeresfrücht

(メーレスフリュヒト)

鉱物資源 Bodenschätze

(ボーデンシェッツェ)

Bodeschätz

(ボデシェッツ)

氷河期 Eiszeit

(アイスツァイト)

Iisziit

(イースツィート)

食塩 Kochsalz

(コッホザルツ)

Chochsalz

(ホッホサルツ)

乳幼児 Säugling

(ゾイクリング)

Sügling

(スュークリング)

Knochen

(クノッヘン)

Chnoche

(フノッヘ)

皮膚 Haut

(ハウト)

Huut

(フート)

葉酸 Folsäure

(フォールゾイレ)

Folsüri

(フォールスューリ)

 

参考ホームページ

スイス連邦食品安全動物衛生庁:「ヨウ素添加食塩が100周年を迎える」:https://www.blv.admin.ch/blv/de/home/lebensmittel-und-ernaehrung/ernaehrung/empfehlungen-informationen/naehrstoffe/hauptnaehrstoffe/jod.html#:~:text=Obwohl%20die%20Schweiz%20in%20einer,bis%20heute%20einen%20unzureichenden%20Jodstatus.

スイス公共放送協会:「甲状腺腫との戦い:スイスが如何にしてヨウ素欠乏症を解消したか」:https://www.srf.ch/wissen/gesundheit/kampf-gegen-kropf-wie-die-schweiz-dem-jodmangel-entgegenwirkte

スイス栄養協会:「ビタミンD:スイスに欠乏しているビタミン」:https://www.sge-ssn.ch/media/tabula-3-14-d-report.pdf

スイス国立科学財団:「推奨されているビタミンDの摂取量は冬のスイスでは確保されない」:https://www.snf.ch/de/Zk2p3iZMMLp37AXd/news/news-190513-medienmitteilung-vitamin-d-mangel-im-winter

スイス公共放送協会:「ビタミンD:太陽のビタミン」:https://www.srf.ch/wissen/gesundheit/vitamin-d-das-sonnen-vitamin

スイス葉酸財団:https://stiftung-folsäure.ch

ブルガーシュタイン財団:「スイス人女性における葉酸不足」:https://www.burgerstein-foundation.ch/de-DE/fachbereich/aktuelles-aus-wissenschaft-praxis/mangelhafte-folsaeureversorgung-bei-frauen-in-der-schweiz#:~:text=keine%20optimalen%20Folsäurespiegel.-,Folatstatus%20bei%20gebärfähigen%20und%20schwangeren%20Frauen%20in%20der%20Schweiz,für%20schwere%20Missbildungen%20des%20Kindes.

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