スイスの知られざる衛星国時代
目次
スイスについてのイメージを聞かれると大概の人が思い浮かべるのは「永世中立国」ではないでしょうか?
これは教科書や観光ガイドを始め、スイスを採り上げる様々な媒体に加え、メディアで必ずと言っていいほど登場する単語であるだけでなく、スイス連邦が自ら世界に発信してきた代名詞であることから無理もありません。
また、永世中立国に付随して「反戦主義」や「紛争に一切関与しない」など色々な連想が独り歩きしたこともあって、スイスは「戦争をしたことがない国」とも称されています。
実際のところ、スイスはハプスブルク家からの独立を目指して幾度となく衝突を繰り返した他、長きにわたって各国に傭兵を派遣してヨーロッパの歴史に深く関わっていたものの、自国の国旗を掲げて他国と争ったことは一度もございません。
そんな喧嘩知らずで、どこかカッコよくも聞こえるスイスですが、実は過去に他国からの侵略を受け、国ごと乗っ取られた経験を持っていることをご存知でしたか?
この事実は世界史で語られるほど重大な出来事ではないため、スイスにそんな過去があったことを知らない方も多いと思います。
したがって、今回はスイスの意外と知られていない他国の統治下に置かれた衛星国時代についてご説明いたします。
フランス革命によって危機に直面したヨーロッパ諸国の旧体制
以前の記事でもご紹介したように、現在のスイス連邦は1291年に神聖ローマ帝国からの独立を決意して誕生した同盟「アイトゲノッセンシャフト」を起源としています。
そのアイトゲノッセンシャフトは隣接する地域の加入や支配領域の拡張を経て、複数の大国に囲まれながらも独立国家としての地位を確立し、それを500年余りにわたり維持してきたのです。
しかし、1789年にフランス革命が勃発すると、ヨーロッパ全土に自由と平等の理念を基本とする民主化運動の嵐が吹き荒れます。
当然ながら、各国の君主はその一連の動きを脅威と捉え、自国でも同様のクーデターが起こることを恐れ、対抗策に乗り出したのです。
それがヨーロッパの主要国による対仏大同盟の結成でした。
当同盟はフランス革命をなかったことにするため、総力を挙げてフランスを制圧し、フランス王国の復興を試みたのです。
とはいえ、多くの国と地域では君主制や特権階級の廃止と自治権を求める庶民がフランスを敵ではなく救世主と見なし、侵攻するフランス軍を積極的に迎え入れる姿勢を示しました。
そのような追い風もあって、フランス軍は次々と勝利を収め、対仏大同盟を撤退に追い込んでいったのです。
そして、フランスが占領した地域では「自由と平等を制限する君主制からの解放」という名目の下、革命後に誕生したフランスの民主的な政治体制をお手本とする姉妹共和国が建国されました。
有名な例としては、1795年に現在のオランダ領に発足したバタヴィア共和国(Bataafsche Republiek)や1796年以降に北イタリアに建てられたチザルピーナ共和国(Repubblica Cisalpina)などがありますが、マインツ共和国を始め、現在のドイツにも様々な姉妹共和国が設立されていました。
ヘルヴェティア共和国の発足
中立国であったスイスはフランスにとって脅威ではなかったものの、革命後に国外に逃げたフランスからの亡命者を多く受け入れていたことから、スイスを反革命運動の本拠地になりかねない国と考える者もいました。
また、フランスは対仏大同盟の主要メンバーだったオーストリアとの戦争を有利に進めるためにスイスを手中に収めることに興味があったのも事実です。
さらに、スイスでは、アイトゲノッセンシャフトの一部でありながらも自治権を有さず、加盟州の管理下にあったいわゆる「臣民の地域」(Untertanengebiet)が、市民の平等や人権を保障するフランスの政治体制に憧れを抱き、スイス領土内に同様の共和国の建国を望んでいました。
そこで、フランスはそのような人々に対して支援を約束し、スイス各地で革命を起こすことを促したのです。
その結果、1798年1月にバーゼルで革命のシンボルである自由の木が建てられ、代官達の城が襲撃されたことをきっかけに、スイス各地で次々と革命が勃発します。
一部の地域では革命運動を武力で抑えましたが、フランス軍がそれらの援護に回ったこともあって、僅か数週間でスイスのほぼ全土で革命が成し遂げられたのです。
その後、臣民の地域はアイトゲノッセンシャフトを構成していた13州と平等に扱われ、自らもカントン(Kanton)として加わり、アイトゲノッセンシャフトを再編成するよう要求してきました。
しかし、フランスは最初から新たなアイトゲノッセンシャフトではなく、旧体制の完全な崩壊と、フランスが実効支配する衛星国の建国が狙いだったため、スイス領土における姉妹共和国の設立に向けての準備を進めていたのです。
それを実現するため、フランスは以前から革命運動に賛同していたスイスの高官を味方に付け、かれらと共にフランス共和国(第一共和政)を真似た中央集権国家の憲法を起草しました。
そして、1798年4月12日にフランスによってその計画が遂に実行され、スイスは500年余り続いたアイトゲノッセンシャフトを廃止して「ヘルヴェティア共和国」(Helvetische Republik)という名の新たな国家へと生まれ変わったのです。
4年半の月日で崩壊した新体制
数百年にわたって根本的な改革がなされなかったアイトゲノッセンシャフトが時代遅れで様々な問題を抱えていたことは否定できませんが、ヘルヴェティア共和国はフランスの介入によって新たな価値観を強制的に押し付けられながら誕生したので、新体制に不信感を抱く者も少なくありませんでした。
特にアイトゲノッセンシャフトを結成した原三州を含む中央スイスの一部地域は、今まで行使してきた自治権を新政府に移譲することを拒み、ヘルヴェティア共和国憲法を受け入れない姿勢を貫いたのです。
このような抵抗に対応できなかった新政府は、フランス軍に支援を要請し、武力による解決を図りました。
ヘルヴェティア共和国からの要請に応じて駆け付けたフランス軍は国内での反政府勢力を全て抑えたものの、略奪や虐殺といった行為に及んだことから、国民の不満はむしろ膨らむ一方でした。
また、ヘルヴェティア共和国はあらゆる分野での近代化を目指して大胆な改革を行い、短期間で財政難に陥ったため、新体制の支持者たちも将来への不安を隠しきれず、次第に政府内でも抗争が始まるようになりました。
その結果、ヘルヴェティア共和国政府は2年半で4つのクーデターを経験し、途中で2度にわたって新憲法を策定しましたが、状況は改善されないままでした。
そこで、元々共和国の発足に反対していた中央スイスの集団が、アイトゲノッセンシャフトの復興を試みて共和国主義者を追放するなど、再び反政府運動を開始します。
本来であれば、治安部隊として常時スイスに駐留していたフランス軍がその鎮圧にあたるべきでしたが、フランスはスイスの内戦に巻き込まれることを好ましくないと判断し、なんと全軍に対して既に撤退命令を出していたのです。
したがって、強力な後ろ盾を失った政府側は反乱軍に太刀打ちできず、国会と各省庁の所在地であったベルン市(Bern)を短時間で包囲され、反乱軍から解散の要求を突き付けられたのです。
これによってヘルヴェティア共和国は1802年9月に僅か4年半余りで事実上の崩壊に追い込まれることになりました。
調停時代の始まり
政府を解散に追い込んだ後、反乱軍はすぐさま旧体制の復興を宣言しますが、フランスは姉妹共和国を崩壊させた反政府勢力による試みを無条件で認める気はありませんでした。
したがって、フランス統領政府の第一統領になっていたナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、アイトゲノッセンシャフトの代表者とヘルヴェティア共和国の政府関係者を招き、両者の間の調停を行うと提案したのです。
そして、1802年12月10日にパリ(Paris)でスイスの今後について話し合う会合が開かれ、誰もが反乱軍は処罰され、ヘルヴェティア共和国が建て直されると思っていた中、ナポレオンは開始早々になんと「住民の法的平等を維持しつつ、連邦憲法を草案すべきである」と発言したのです。
つまり、ナポレオン率いるフランス政府は、ヘルヴェティア共和国の存続など全く眼中になく、新たなアイトゲノッセンシャフトを全面的に後押しすると打ち明けました。
その後、長期間にわたる交渉を経て新生アイトゲノッセンシャフトの憲法が完成し、1803年3月10日にヘルヴェティア共和国政府からも正式に承認されたのです。
当該憲法は元々ナポレオンの調停によって始まったことから「調停文書」(Acte de médiationまたはMediationsakte)と呼ばれています。
これでスイスは概ね以前の国家体制を取り戻したかのように思われましたが、フランスは見返りとしてスイスとの防衛同盟の締結に加え、スイス国内で徴兵を行う権限の保証を要求しました。
そのため、スイスは外政においてフランスと足並みを揃え、軍事的にもフランス軍の一部を形成することになったのです。
それでも、共和国時代に比べれば、フランス政府による影響は極めて弱く、各州の自治権と自由はほぼ制限されておらず、何よりも国家として財政的に安定していました。
ただし、ナポレオンの要求を受け入れざるを得ない立場として引き続きフランスの付庸国だった事実は以前と変わりませんでした。
衛星国時代の最期
ナポレオンはその後フランス帝国(フランス第一帝政)を建国し、自らフランス人民の皇帝となって次々とヨーロッパの国々を衛星国にしたり同盟国として味方に付けたりします。
そして、既にその一員として巨大勢力の傘下にあったスイスは、決して不利益な立場に置かれていたわけではなかったことから、当初は不満を抱くこともありませんでした。
しかし、スイスからも数千人の兵士が参加した1812年のロシア遠征が失敗に終わると、状況が一変し、フランスに牙をむく国が続々と登場します。
そんな中、スイスもまたフランスとの共倒れを避けるため、再び中立国としての地位を主張し、とりあえずフランスと距離を置くことにしたのです。
スイス政府内では今後のあり方については意見が一致しなかったものの、最終的にはフランス革命以前のアイトゲノッセンシャフトを復興する方向で調整が行われました。
そして、ナポレオンの敗北とほぼ同時にフランスとの関係を完全に断ち切り、1815年8月7日に全州一致で調停文書を無効とすることが決まります。
これによって、約17年間にわたるフランスの衛星国時代はまるで嘘だったかのように、スイスは元の姿に戻ったのです。
ただし、国民が一度手に入れた自由を再び規制することは容易ではなかったことから、臣民の地域の再設置は行われず、共和国時代に追加された新6州を維持することで合意しました。
また、古くからスイスの同盟国で一次的にフランスに併合されていたヴァレー共和国(République du Valais)とジュネーヴ共和国(République de Genève)に加えて、ヌーシャテル公国(Principauté de Neuchâtel)もアイトゲノッセンシャフトへの加盟を表明し、スイスは全22州によって構成される連邦として新たな船出を迎えることになったのです。
さて、今回は歴史に詳しい一部の方を除けば、大半の人にとって初耳の内容であったかと思いますが、楽しんでいただけましたでしょうか?
スイス人からすれば、1798~1815年の期間は他国の圧力によってスイスがそれまで国家として築き上げてきた根本的要素を捨てて様々な妥協を強いられた時期だったことから、あまり良い印象を持っていません。
しかし、それ以前のアイトゲノッセンシャフトが時代に見合っていない古い仕来りを無理に維持していた一面を持っていたのは否定できないので、フランスによる侵略は、スイスが近代化に目を向けるきっかけを作ってくれたと言えます。
例えば、複数の都市における豪族やギルドなど特権階級による絶対的支配の撤廃や、全国民を平等に扱う仕組みは、近代国家を形成するに当たって不可欠だったため、早い段階からその基盤ができていたことは非常に重要でした。
また、ヘルヴェティア共和国政府が進めていた教育機関の普及と学校教育の推進に関しても同様で、フランス革命によってもたらされた内容の中には従来のスイスに足りなかった部分を補填するものも決して少なくありません。
ただし、これはあくまで私の個人的な感想で、スイスが近代化に向かうために他国から侵攻を受けたり、色々な犠牲を払ったりする必要があったかと聞かれると、人によって意見が別れると考えますので、スイスの衛星国時代をどのように評価するかは皆様に委ねます。
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
喧嘩 | Streit
(シュトライト) |
Schtriit
(シュトリート) |
平等 | Gleichheit
(グライヒハイト) |
Gliichheit
(グリーフハイト) |
反革命運動 | Gegenrevolution
(ゲーゲンレヴォルツィオーン) |
Gägerevolution
(ゲゲレヴォルツィオーン) |
再編成する | neukonstituieren
(ノイコンスティトゥイーレン) |
neukonschtituiäre
(ノイコンシュティトゥイエレ) |
旧体制 | alte Ordnung
(アルテ・オートヌング) |
alti Ordnig
(アルティ・オルトニク) |
高官 | Würdenträger
(ヴュルデントレーガー) |
Würdeträger
(ヴュルデトレゲル) |
価値観 | Wertvorstellung
(ヴェアートフォアーシュテルング) |
Wertvorschtellig
(ヴェルトフォルシュテリク) |
移譲する | übertragen
(ユーバートラーゲン) |
überträge
(ユベルトレーゲ) |
クーデター | Staatsstreich
(シュターツシュトライヒ) |
Staatsschtriich
(シュターツシュトリーフ) |
治安部隊 | Sicherheitskräfte
(ズィッヒャーハイツクレフテ) |
Sicherheitschräft
(スィッフェルハイツフレフト) |
参考ホームページ
スイス連邦資料館オフィシャルサイト:近代のスイス:https://www.bar.admin.ch/bar/de/home/recherche/recherchetipps/themen/die-moderne-schweiz.html
スイス歴史辞典:ヘルヴェティア共和国:https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/009797/2011-01-27/
スイス歴史辞典:調停時代:https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/009798/2009-10-29/
スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
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