アルプスの少女ハイジも愛したラクレット

 

スイス人として日本で生活しているとあの人気アニメ「アルプスの少女ハイジ」を話題にされることが非常に多く、中でもアルムおんじが暖炉でチーズを溶かしてハイジに「ラクレット」(Raclette)を振る舞うシーンには大半の方が衝撃を受けたと度々お聞きします。その影響もあって、「私もラクレットを食べてみたい」と思っただけでなく、わざわざスイスを訪れてその目標を達成された人までいるそうです。

とはいえ、近頃は日本国内でラクレットを提供するお店が増えていることもあって、遠く離れた現地に足を運ばなくてもハイジと同じ体験ができるようになっています。

しかし、「ラクレット」の名前が付いているからといってそれが必ずしも本場スイスのラクレットと同じ料理であるとは限りません

というのも、私自身も日本で何度かラクレットをいただいたことがありますが、アレンジレシピなどオリジナルとは少し違うものが出てきたケースが多かったので、少し残念な気持ちになったのが正直なところです。

また、ラクレットは誰でも容易に作れるチーズ料理と思われがちですが、食材、調理法、食べ方などが形式化された独自の食文化が存在するため、それらをある程度遵守しないとラクレットではなく、ただの焼きチーズになってしまいます。

そこで、スイス人としては日本の皆様にせめて正統派を知った上でアレンジバージョンを楽しんでいただきたいと強く思っておりますので、今回はアルプスの少女ハイジも愛したラクレットについて色々とお話しさせていただきます。

 

国境を越えて世界を股に掛けたスイスの伝統的な郷土料理

 

今や世界中でスイスの代名詞のひとつとして認識されているラクレットですが、元々スイス南西部に位置するヴァレー州(Canton du ValaisまたはKanton Wallisを起源とする料理と言われています。

ある伝説によると、ヴァレー州の小さな里に住むひとりの葡萄農家が寒さを凌ぐため、備蓄していたチーズを自宅の暖炉で温めて、溶かしながら食べたのがラクレットの始まりだったそうです。ヴァレー州におけるチーズ製造の歴史が紀元前4世紀まで遡る他、あのヴィルヘルム・テルも溶かしたチーズを好んで食べていたとの言い伝えまで残っているため、ラクレットは相当昔からあった可能性があります。

しかし、ラクレットの存在を裏付ける最古の文献は1574年のものであることから、その歴史を約450年とするのが通説です。

また、名前についてはドイツ語で炙りチーズを表す「ブラートへ―ス」(Bratchäsもしくはそのフランス語バージョンの「フロマージュ・ロティ」(fromage rôti)が従来から一般的な名称として用いられていました。

ところが、19世紀後半頃からはヴァレー州が自身の郷土料理を全国的に普及させたい活動の一環としてそれをフランス語で「こそぎ取る」を意味する「ラクレー」(raclerに因んで「ラクレット」(Raclette)と命名したのです。

このネーミングにはチーズを直火で炙って溶かした後、ナイフなどでこそぎ取りながらジャガイモに載せて召し上がるというヴァレー州特有の食べ方をアピールする意図もありました。

というのも、ヨハンナ・シュピーリ(Johanna Spyri)によるハイジの原作で串刺しにしたチーズを火で炙ってパンと一緒に食べるシーンが描かれているように、スイス国内では地域によって様々な調理法や食べ方があったことが窺えます。

ただし、ラクレットという名前が付いてからは料理そのものも上記のヴァレー式がスイス全国で主流となっただけでなく、国外でも広く知れ渡ったのがこのスタイルでした。

 

ラクレットにはラクレットチーズを用いること!

 

さて、ラクレットの歴史や名前の由来に関する情報を得たところで、その作り方の注意事項についても学んでいきましょう。

まず、ラクレットの主役は溶かしたチーズとはいえ、使用するチーズのタイプや種類はどれでもOKというわけではなく、特定のものに限定されます。

知っている人であればこれは当たり前のことですが、詳しい知識がなければ好みのチーズを焼くだけでラクレットになると勘違いしている方もいるので、チーズの選定はラクレット作りの重要な第一歩であることを肝に銘じていただきたいと思います。

チーズは溶かす際、脂肪分が多いほど早く溶けるだけでなく、コクも深くて美味しくなると言えます。

また、軟らかいチーズよりも硬めのチーズを用いた方が熱した時に程よいとろみが味わえるため、数カ月間熟成させた種類が望ましいです。

そのような理由から、ラクレットに用いるチーズは45%以上の脂肪分(固形分中乳脂肪)を含むセミハードタイプが最適とされており、スイスではチーズ職人が上記の要素を考慮して専用の種類を製造し、それをラクレットチーズ(Raclettekäse)の名前で販売しています。

したがって、ラクレットに使うのはまずこのラクレットチーズまたはそれに近い種類であることが最も重要なポイントです。

世界的な人気に乗じて近年はスイス以外の国でも様々なチーズメーカーや工房がラクレットチーズを製造販売していることから、それをわざわざスイスから取り寄せる必要はないのですが、製造者やブランドによって性質や特徴に違いがあることに気を付けなければなりません。

この点に関しては個人の好みもあるものの、人生で少なくとも1度はオリジナルを食べてみたいと思っているのであれば、チーズを調達される際は、やはり本場の味であり、ラクレットに一番うるさいスイス人をも唸らせる、販売実績が豊富なスイス産ラクレットチーズを選択されることを強くお勧めします。

 

ラクレットチーズ(写真:©Switzerland Cheese Marketing)

 

 

ラクレットはジャガイモ、酢漬け玉葱そしてピクルスと食べるのが基本!

 

ラクレットの場合、それなりのラクレットチーズを使えば、他に何も要らないほど十分な満足感が得られますが、アルプスの少女ハイジもラクレットをパンに載せて食べていたように、他の食材と一緒に召し上がるのが王道です。

ご存知の通り、チーズは多くの食べ物との相性が抜群で、むしろ別のものと組み合わせた方が見た目や味に変化が加わってより美味しくいただけます。

チーズと一緒に食べて一番美味しい食材については様々な意見があるだけでなく、住んでいる国や地域によっても好みが大きく異なることは言うまでもありません。

しかし、ラクレットに関しては古くから定番のお供とされている3つの食材が存在し、スイスでは個人の嗜好を問わず、どの家庭でもその組み合わせによる食べ方を基本としています。

日本の皆様にとってはあまり馴染み深いものではないかもしれませんが、その食材とはなんと「ジャガイモ」、「酢漬け玉葱」、そして「きゅうりのピクルス」なのです。

これを聞いて、「お漬物と一緒に食べるのが普通なの?」と、少し驚かれた人もいると思いますが、山岳地帯が多く、冬も長いスイスの伝統料理において山でも栽培可能なジャガイモとお漬物などのような保存食が選択肢に挙げられるのはそこまで不思議なことではございません。

そして、ラクレットもまたアルプス山脈を居住地とする牧人たちの質素な生活で生まれたことを考慮すると、チーズを新鮮野菜と一緒に食べる方がむしろ違和感があります。

私が知る限り、日本では洋食の雰囲気と彩りを重視して、ブロッコリ、トマト、ならびにピーマンの上にチーズを掛けてそれをラクレットとして提供するお店が多いようですが、スイス人からしてみればそれはスイス料理の歴史的および文化的背景を完全に無視しており、もはや邪道に過ぎません。

皆様もブロッコリやトマトをお寿司のネタにされたら、それを作った人物に対して「斬新だけどお寿司のことを何も分かっていない」と、言いたくなるのではないでしょうか?

つまり、如何なる料理でもまずはオリジナルを知り、その根本的な要素を残さないと本来の面影もない全く別のものになってしまうということです。

例えば、我が家のラクレットでは細かく刻んだベーコンやオレガノをチーズにトッピングするのが流行っていますが、トッピングは各々が任意で自身のお皿において行うため、それらを混ぜたくない人は通常通りのラクレットを楽しめるようにしています。したがって、皆様もラクレットを語る以上はラクレットチーズにジャガイモ、酢漬け玉葱、ならびにきゅうりのピクルスを添えて原型を維持しながらアレンジを加えるよう心掛けてください。

 

ラクレットの定番のお供:ジャガイモ、酢漬け玉葱、きゅうりのピクルス

 

ラクレットは大人数で時間をかけて食べるべし!

 

ラクレットでもうひとつ忘れてはいけないのが大半の料理とは少し異なるその独特な食文化です。

ラクレットは元々全員で囲炉裏を囲む伝統的な日本料理との共通点が多く、大人数でひとつの食卓に座り、長時間にわたって召し上がるものとされています。

というのも、ラクレットは先ほどご紹介した3つの食材にチーズを載せて完成する一品料理ではなく、ラクレットチーズの塊を炙り、溶けだした表面を削り取って順番にそれぞれのお皿に注ぐ工程を繰り返して、少量を何度もお代わりする、言わば大阪人が自宅で作る蛸焼きのように食べるのが普通だからです。

また、チーズを炙る際は通常暖炉の直火または屋外であれば焚火に近づけるのが伝統的な方法ですが、近頃は暖炉のある住居が減少していることから、殆どの人は「ラクレットオーブン」(Raclette-Ofen)「ラクレットグリル」(Raclette-Grill)と呼ばれる電気加熱式ヒーターを取り備えたラクレット専用の様々な調理器具を用います。

これらは1950年代に近代化する生活スタイルに合わせて、誰もが自宅で気軽にラクレットを楽しむために開発されたもので、今では大阪府民なら必ずたこ焼き器を持っているのと同様に、スイスの一般家庭に最低でも1台置いてあるのが当たり前です。

したがって、スイスでは特にホームパーティー、宴会、会社や部署の社員で行う食事会等を始め、建国記念日もしくは年末年始に家族や親戚が一斉に集まる時にラクレットを食べます。

もちろん、1人や2人でラクレットを作ることは可能ですし、家電量販店では単身用のラクレットオーブンが販売されているのも決して珍しくありません。

しかし、大多数のスイス人は習慣的にラクレットが大勢で味わう料理であるとの認識を持っており、1人ではなかなかしないのが現状です。

日本でもすき焼きは一定の人数が揃った時にしか作らない方が多いと推測しますが、その理由は1人ですき焼きが食べられないからではなく、鍋料理とは「同じ釜の飯を食う」の意味合いを込めてみんなで楽しくやりながらいただく料理であるという概念が根付いているからではないでしょうか?

それと同じく、スイスでは物心がついた時からラクレットが数時間に及んで家族や仲間と共に召し上がる御馳走であり、その際にのみ感じられる雰囲気もまたラクレットの欠かせない一部と考えています。

 

ラクレットの典型的な食べ方の例 (写真:Valais/Wallis Promotion)

ラクレットの典型的な食べ方の例

(写真:Valais/Wallis Promotion)

 

ということで、アルプスの少女ハイジも愛したラクレットは以上になります。

ラクレットは誰にでも簡単に作れる料理に見えても、本場の味を再現するにはチーズの種類や一緒に食べる食材などに関するそれなりの予備知識が必要なことをご理解いただけましたでしょうか?

また、最後に言及した食文化については暖炉もしくはラクレットオーブンの他、大人数での食事会が可能なスペースも必要になってくるため、日本でスイスと同様な楽しみ方は難しいと思います。

それでもスイスの代表的な郷土料理をアレンジも加えずにそのまま体験してもらいたいとの熱意を持って今回ご紹介したようなラクレットを提供する飲食店は日本にも複数存在します。

したがって、皆様が国内で本当のラクレットを求めるのであれば、なるべくそういったお店を訪れてください。

そして、ラクレットは1人ではなく、大勢で食べるのが基本ですので、女子会や宴会としての来店をご検討されてみると良いと思います。

では

 

Bis zum nöchschte mal!

Birewegge

 


今回の対訳用語集

日本語 標準ドイツ語 スイスドイツ語
人気 beliebt

(ベリープト)

beliäbt

(ベリエプト)

暖炉 Kamin

(カミーン)

Cheminée

(シュミネー)

食材 Nahrungszutat

(ナールングスツータート)

Nahrigszuetat

(ナーリクスツエタート)

郷土料理 lokale Küche

(ロカーレ・キュッヘ)

lokali chuchi

(ロカーリ・フッヒ)

串刺しにする aufspießen

(アウフシュピーッセン)

uufschpiesse

(ウーフシュピエッセ)

脂肪分 Fettgehalt

(フェットゲハルト)

Fettghalt

(フェットクハルト)

うるさい laut

(ラウト)

luut

(ルート)

玉葱 Zwiebeln

(ツヴィーベルン)

Zwible

(ツヴィブレ)

温める aufwärmen

(アウフヴェアーメン)

uufwärme

(ウーフヴェルメ)

宴会 Festessen

(フェストエッセン)

Fäschtässe

(フェシュトエッセ)

 

参考ホームページ

ヴァレー州オフィシャルサイト:地場産品ラクレット

https://www.valais.ch/de/ueber-das-wallis/lokale-produkte/walliser-raclette-aop

チーズブランド「ラクレット・スイス」オフィシャルサイト:ラクレットの歴史

https://www.raclette-suisse.ch/de/raclette/geschichte

元祖ヴァレー式ラクレットのレシピ

https://www.raclette-du-valais.ch/rezepte/originalrezept

ラクレットチーズ通販サイト「RacletteChäs.ch」

https://raclettechäs.ch

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