さくらんぼの町ツーク
目次
今まで様々なスイスの名所をご紹介させていただきましたが、どれも個性豊かで独特な味わいを持っている場所ばかりであることに気付いていただけたでしょうか?
以前、ご説明したようにスイスは多言語ならびに多文化国家である故、同じ国でありながら各地域に他と異なる特色が表れるのも不思議ではないと言えます。
そして、今回新たにご紹介する都市も決してその例外ではありません。というよりも、歴史を感じさせながらモダンであり、自然が多いにも拘わらずスイスを代表するビジネス街であるなどその極端な両面性に驚かされるほどです。
しかも、存在感が薄い訳ではないのに、ガイドブックに掲載されることもあまりないという点においても珍しいと言えます。
その場所とはツーク州(Kanton Zug)の州都であり、さくらんぼの町とも呼ばれるツークです。
名前を聞いたことがない方が多いと思いますので、どのような所なのかを楽しみにしながらお付き合いください。
敵方に寝返った元ハプスブルク家の領地
ツーク湖(Zugersee)の北東に位置するツーク市の起源については不明ですが、その周辺に新石器時代以降の各時代の痕跡が残っていることから、紀元前5000年頃からは常時集落があったことが分かっています。
また、考古学研究でその後もローマ帝国やアレマン人が定住していたことが証明されているものの、ツークに関する記載を含む資料は何れも皆無で、詳細が掴めていないのが現状です。
現存する最古の記録は858年の贈与証書で、東フランク王国であるルートヴィヒ2世(Ludwig II. der Deutsche)が現在のツーク州にあたる一部地域をチューリッヒ(Zürich)の聖母聖堂(Fraumünster)に譲渡したことを記述しています。
さらに、別の資料からは1242年に湖に面した場所にツークという町が建てられたことが記されていますが、それが誰によってもたらされたかは示されていません。
確かなのは、1264年に現在のツーク市とその周辺がハプスブルク家の所有領になり、市場を有する物流と貿易の拠点であったことです。
しかし、14世紀後半に入ると地理的にチューリッヒとルツェルン(Luzern)に挟まれた場所にあったツークは両者を結ぶ通商路を遮っていたため、1352年にアイトゲノッセン軍に占領され、強制的に6番目の州としてアイトゲノッセンシャフトに加盟させられます。
とはいえ、これによってハプスブルク家の所有権が失われた訳ではなかったので、ツークは事実上アイトゲノッセンシャフトの保護領に過ぎませんでした。
ただし、ツークはその頃からアイトゲノッセン軍の味方として様々な戦争に参加し、なんとハプスブルク家の分家に当たるフリードリヒ4世(Friedrich IV.)を撃退するためにローマ皇帝にも手を貸したのです。
この功績が称えられ、ツークは1415年に帝国直轄領に指定され、ハプスブルク家との関係を永久的に断ち切ると同時に都市国家としてアイトゲノッセンシャフトの正式メンバーとなります。
その後、次々と周辺地域を手に入れたツークは現在のツーク州の原型を形成し、宗教改革や産業革命などでは常に中央スイスに属するルツェルンや原三州と行動を共にしてきました。
中世の雰囲気が漂う旧市街を有する小都市
ツーク市は比較的小さな町ですが、ツーク山(Zugerberg)の麓に位置し、湖の畔に建っていることから豊かな自然に恵まれており、様々なレジャーも充実している場所です。
また、チューリッヒやルツェルンといった都会からも電車で30分圏内にあるため、近年ではベッドタウンとしても高い人気を誇っています。
とはいえ、800年余りの歴史を持つ古都ですので、ツークの最大の魅力はなんといってもその風情漂う旧市街と数多くのご当地文化にあります。
ツークは元々3本の通りで区切られた湖沿いの小さな町から始まり、その後徐々に拡大され、近代以降は旧市街を囲むように住宅地や工業地帯が誕生しました。
したがって、現在のツーク市は湖に面している旧市街とそれを覆う新市街という雰囲気が全く異なる2つの地区に分かれています。
特に旧市街に関しては大部分が当時の姿を留めていて、中世の街並みの殆どがここまで良好な保存状態で残っているのはスイス全国でも非常に珍しいです。
中でも代表的なのは市民に時刻を知らせる時計塔兼監視塔の「ツィートトゥルム」(Zytturm)です。
13世紀に創建当初の町の出入口として造られたこの建物は16世紀に牢獄と居間を含む52メートルの塔に改築され、1574年の時計の追加を経て現在の形になりました。
ツーク市の紋章と同じ青と白の線で装飾されているその寄棟屋根とあらゆる場所から時刻を確認できるように突き出た造りになっていることからツィートトゥルムはツーク市のシンボルとして親しまれています。
また、ツィートトゥルムの門を潜って旧市街に入ると、旧市庁舎を始め、時代を感じさせる建造物や狭い路地がそれまでとは全く違うオーラを放ち、タイムスリップしたかのような気分を味わわせてくれます。
さらに、霧が深い日には新市街など周囲が視界から完全に消えることが多いので、旧市街が普段以上に独特な空間を生み出して、異世界に迷い込んだのではないかと錯覚してしまうのがツーク市ならではの特徴です。
さくらんぼの名産地
冒頭でも既に触れたように、ツーク市は「さくらんぼの町」(Chriesistadt)とも呼ばれることが多いですが、その理由はツークで600年以上も前からサクラの栽培が行われていて、さくらんぼに纏わる様々なご当地文化が存在することにあります。
自然が豊富なツークでは町が誕生した当初から湖での漁業と比較的平坦な地形を活かした農業が盛んで、中でも他の州との差別化を図って力を入れていたのが果物を提供すると同時に良質で高価な建築材にもなるサクラの木の栽培でした。
しかも、ツークにおけるサクラ栽培は早い段階から市の管理下に置かれ、市街地の膨大な土地を入会地(いりあいち)にすることで産業化を推進し、町を挙げての取り組みだったのです。
そのため、ツークには今でもこの歴史的背景に由来する習慣や伝統が多数残っており、市民にとってもさくらんぼは町を象徴する代名詞となっています。
特にさくらんぼが実る6月には一連の行事が開催され、その中で最初に行われるのは「さくらんぼ襲撃」(Chriesistrum)というお祭りです。
ツーク市のさくらんぼ農園は入会地であったことから、収穫シーズンを迎えると当然ながら早い者から根こそぎ摂っていき、遅れを取った人には何も残らないという事態が多々ありました。
そこで市は全員に平等な条件を保証するため、収穫の開始を教会の鐘を鳴らして知らせることを決めたのです。
さらに、鐘が鳴る前に収穫を行った人を罰して、夜間も見張り人を配置するなどルール違反の取り締りも徹底しました。
そして、鐘が鳴ると市民は一斉に梯子を担いで入会地に走っていき、猛スピードでさくらんぼを獲ったことから、この行事を次第にさくらんぼ襲撃と呼ぶようになったのです。
現在はさくらんぼ農園が私有地になっているので、当時のような市民同士の争いはもうありませんが、この伝統を絶やしたくない思いから、ツーク市は今でも毎年収穫シーズン到来を鐘で知らせて、梯子を持って市内を走るレースを開催しています。
また、さくらんぼ襲撃後は数週間にわたって湖沿いの広場で「さくらんぼ市」(Chriesimärt)が開かれ、全国からさくらんぼを求めて人が集まります。
多くの来客はさくらんぼ以外にもそれらを使用した様々な特産品を目当てに訪れ、中でも「キルシュ」(Kirsch)の名で知られているさくらんぼのブランデーやそのお酒が入ったレイヤーケーキ「キルシュトルテ」(Kirschtorte)は定番のお土産として全国的に有名です。
スイス屈指のタックスヘイブン
このように、さくらんぼと深い関係があるツークですが、実はスイス人が「ツーク」と聞いてまず思い浮かべるのはさくらんぼではなく、農業とも全く無関係な「金持ち」と「外資系企業」なのです。
ツークは州全体の総面積が僅か239km2とスイスで3番目に小さく、人口も長い間全国で最低レベルでした。
そのことから、隣接するチューリッヒやルツェルンに比べて経済力が極めて低く、世界大戦の影響もあって20世紀前半には州の債務が膨大に膨らみ、スイスで最も貧困な地域となっていました。
この状況を一刻も早く改善するため、州政府は戦後に極端な税政策を打ち出し、たった数十年で不況を克服しただけでなく、その勢いでツークを最も裕福な州にまで成長させたのです。
統計によると、2018年のツーク州における人口の平均月収は税込みで6,805スイスフラン(約81万円!)で、月収が4,000スイスフラン(約48万円)以下の人口の割合はたったの6%という誰もが驚く水準を示していました1。
ツーク州がこうなるために何をしたかと言うと、一般法人税を15%とし、実業務を行わないホールディングスや管理会社に対して8.8%という世界的に見ても極めて低い税率を設定したのです2。
この税率には国内企業のみならず、特に売上が好調な海外企業も目を付け、次々とツークに本社を移す会社が殺到しました。
その結果、2010年にはツーク州の商業登記簿に登録されている企業数が約30,000社となり2、職場の数がなんと人口を上回ったのです。
それに伴い、特にツーク市には大規模なビジネス街が誕生し、世界最大のバイオテクノロジー企業アムジェン(Amgen)や電子機器製造の大手シーメンス(Siemens)など、錚々たる外資系企業が拠点を構えるようになりました。
今やツークには120カ国以上の多国籍企業が集まっており、その需要に応えるために教育機関を始め、あらゆる分野で国際化が加速していて、生活水準も急激に上がっています。
しかし、その影響で物価の上昇も深刻化しており、家賃やその他の生活費が高すぎることを理由にツークから離れる人も年々増えているのも現状です。
したがって、ツーク市はスイス屈指のタックスヘイブンとして誰もが羨む地方政治の成功例である一方、税政策がもたらした新たな課題と今後どう向き合っていくかが注目されています。
今回はツーク市を採り上げさせていただきましたが、楽しんでいただけましたか?
小さな田舎町であるにもかかわらず、想像もしなかった一面を持っていることには皆様もさぞ驚かれたことでしょう。
メルヘンチックな中世の街並みは観光地のイメージを抱かせる反面、さくらんぼの名所と聞けば農村地域を連想させるツークが実は多くの外資系企業を持つ国際的なビジネス拠点でもあるのは意外ですよね?
しかし、逆に言えばツークは歴史や文化を愛する人、自然を楽しみたい人、そしてビジネスを展開したい人といった幅広いニーズに対応しており、総合的に見てとても魅力的な町であると言えます。
そういった意味ではそれぞれ興味が異なる皆様も必ず気に入っていただける要素がありますので、チューリッヒを離れてのんびりした一日を過ごしたい場合は是非一度ツークにも足を運んでみてはどうですか?
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
1出典:ツーク州オフィシャルサイト、健康省統計課の労働市場統計:https://www.zg.ch/behoerden/gesundheitsdirektion/statistikfachstelle/themen/arbeitsmarkt/lohn
2出典:スイス放送協会:「スイスの「綺麗な」タックスヘイブンでの生活」:https://www.swissinfo.ch/ger/hoher-lebensstandard-in-zug_leben-im–sauberen–schweizer-steuerparadies/32899258
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
記録 | Aufzeichnung
(アウフツァイヒヌング) |
Uufzeichnig
(ウーフツァイフニク) |
贈与 | Schenkung
(シェンクング) |
Schänkig
(シェンキク) |
姿 | Gestalt
(ゲシュタルト) |
Gschtalt
(クシュタルト) |
時刻 | Uhrzeit
(ウアーツァイト) |
Uhrziit
(ウールツィート) |
タイムスリップ | Zeitreise
(ツァイトライゼ) |
Ziitreis
(ツィートライス) |
さくらんぼ | Kirschen
(キルシェン) |
Chriesi
(フリエスィ) |
サクラの木 | Kirschbaum
(キルシュバウム) |
Chriesibaum
(フリエスィバウム) |
入会地 | Allmende
(アルメンデ) |
Allmänd
(アルメント) |
市/市場 | Markt
(マルクト) |
Märt
(メルト) |
税金 | Steuern
(シュトイアーン) |
Schtüüre
(シュテューレ) |
参考ホームページ
ツーク市オフィシャルサイト
ツーク州観光庁オフィシャルサイト
スイス歴史辞典:ツーク市
https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/000797/2020-05-05/
スイス歴史辞典:ツーク州
https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/007373/2019-04-24/
ツーク産さくらんぼ利益共同体
スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
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