日本で功績を残したスイス人
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皆様はスイスの有名人と言えばどのような人物を思い浮かべますか?この質問をする場合、多くの方はすぐに答えが出ず、少し考えてから何とか記憶に残っているスイス人または現役のスポーツ選手を挙げられるのではないでしょうか?スイスは人口が少ない上、歴史においても名前より行動で実績を残した人物が多いことから、遠く離れた日本では広く知られているスイス人がさほどいないようです。とはいえ、そんなスイス人の中にはなんと日本で活躍した者も少なからず存在しますし、日本の皆様にはせめてその人物だけでも知っていただきたいと思います。したがって、今回は日本で功績を残したスイス人3名をご紹介いたします。
スイスと日本を結び付けた人物
まず、日本に関連して最初に挙げておきたいスイス人はエーメ・アンベール=ドロー(Aimé Humbert-Droz)です。アンベールが日本に滞在したのは僅か10ヶ月で、来日した時期も幕末であることから、その名前すら聞いたことがない方も多いと思いますが、実はスイスと日本を結び付けた人物なのです。
アンベールは1819年に時計職人の息子としてヌーシャテル州(Canton de NeuchâtelまたはKanton Neuenburg)で生まれ、大学を中退して講師となるも、生まれ故郷で政治家の道を歩み始めます。ヌーシャテル州の文部長官を歴任し、1854年に全州議会(Ständerat)における同州の議員に当選した後、1858年に設立されたスイス時計生産者組合(Union Horologère)の初代会長にも就任して時計産業の海外進出に全力を注ぎました。
特に、アジア諸国との貿易を拡大するため、ドイツ人を介して日本とも交渉も進めますが、残念ながら失敗に終わります。そこで、今度は自ら日本に出向き、スイスと日本との間に通商条約を締結することをスイス連邦議会に提案したのです。その結果、スイス政府は日本への使節派遣を決定し、アンベールを使節団長および全権公使に任命しました。そして、オランダ政府の協力を得て、同国の軍艦に乗った使節団は1863年4月9日に長崎に到着し、横浜経由で江戸へと向かいますが、攘夷の嵐が吹き荒れる中、徳川幕府はスイスを相手にしている場合ではありませんでした。それでも我慢強く粘って約10ヶ月にわたって交渉を繰り返した使節団は、ようやく1864年2月6日に日瑞修好通商条約の調印に成功します。黒船で圧倒的な存在感を示した米国や当時大国であった英・仏・露に次いで、戦艦すら持っていない小国家スイスが日本との国交を樹立させたのは正に予想外の展開でした。また、それによって開始された両国間の貿易はその後お互いの経済発展と繁栄に大きく貢献しただけでなく、様々な分野における交流をも確立させました。特に、日本人の憧れで、現在もスイスが日本に最も多く輸出しているスイス時計は、アンベールの功績だったのです。
一人でも多くの命を救うために全力を尽くしたスイス人
続いて皆様に知っていただきたい日本で功績を残したスイス人は来日した目的も含め、活動した分野と内容が非常に特殊ですが、国籍を問わず、人間の鏡とも言うべき偉大な人物です。とはいえ、日本だけでなく、実はスイスでも大半の人がその名を知りませんし、歴史の教科書にも載っていません。しかし、広島市民であればむしろ知らない方はいないと言ってもいいほど有名で、広島平和記念公園に外国人として唯一、記念碑まで存在しています。
その偉大なスイス人とはマルセル・ジュノー(Marcel Junod)のことです。1904年にアンベールと同じヌーシャテル州で生まれたジュノーは医学部を卒業後、フランスの病院で外科医として勤務します。1935年に友人の紹介で赤十字国際委員会の派遣員となり、エチオピアを始め、内戦が勃発したスペイン、そして1939年から1944年の第二次世界大戦中はドイツが占領していた地域を転々とします。ジュノーの本来の役目は医療支援および各国によるジュネーヴ条約の遵守を呼びかけることでしたが、化学兵器等による被害を目の当たりにしたこともあり、独断で罪のない民間人や被災者への支援も行っていました。その後、派遣員を辞めて病院勤務に復帰する予定だったにも拘わらず、日本における捕虜収容所の視察を命じられます。
1945年8月9日に東京に到着したジュノーは、捕虜の解放と支援に当たるも、原爆が投下された広島市の写真を見て、急遽広島に向かうことを決意。さらに、GHQに協力を要請し、9月8日に計15トンの医療物資を持って広島に着くと、すぐさま物資を配布し、病院を視察しながら自ら被災者の治療も行いました。したがって、ジュノーは日本でも指示されていた業務を超える勝手な行動を取りましたが、彼の決断によって数えきれない命が救われることになったのです。
また、戦後は在日朝鮮人の帰還にも関わり、複数の著書を通じて核兵器を含む非人道的な行為を非難する活動に従事しました。このように、ジュノーは自身の生涯を通して、医療従事者だけでなく、人間としてやるべきことを模範的に示した人物だったと言えます。そして、その生き様を象徴するかのように以下の名言を残して1961年にこの世を去りました:「無数の叫びがあなたたちの助けを求めている」。
「鉄人」および「青い目の侍」と呼ばれた男
日本で功績を残した3人目のスイス人は同世代ということもあって、皆様もよくご存知というだけでなく、実際に見たことがあるという人も少なくはないでしょう。その人物とは他でもないあの格闘家のアンディー・フグ(Andy Hug)ことアンドレアス・フーク(Andreas Hug)です。35歳の若さで病死した悲劇の大スターというイメージを持っている人が多いと思いますが、実は幼少期から誰よりも苦労してようやく栄光を掴んだ、正にどん底から這い上がってきた努力家でした。1964年、母子家庭に生まれたアンディーは、幼い頃に祖父母に預けられ、決して裕福とは言えない環境で育ちます。当時はサッカーに励んでいたアンディーでしたが、11歳で極真空手に出会い、その3年後には全国大会で優勝するほどの実力を身に着けていました。また、サッカーでも16歳以下の代表に選出されましたが、家庭が経済的に苦しかったため、サッカーを諦めて空手に専念します。とはいえ、空手でもすぐさまスイス代表に選ばれ、ヨーロッパ選手権で優勝し、世界選手権でも初めて日本人以外で決勝戦に進むなど輝かしい成績を残します。
しかし、彼を含めた日本人以外の選手を不利にする仕組みがあることに強い懸念を抱いたことで、極真会館を退館して正道会館に移籍し、K-1に参戦し始めます。当初はK-1ルールに馴染めないという一面も見られたものの、数々の名勝負を繰り広げて瞬く間にトップ選手であることを知らしめました。そして、1996年のK-1グランプリで念願の初優勝を果たすと、その翌年と翌々年も準優勝し、3年連続決勝進出という史上初の快挙を達成したのです。一度負けた相手でもリベンジマッチで自身の真の強さを示す他、何度でも立ち上がるその諦めない姿勢と正々堂々の戦いぶりは世界中で高く評価され、ファンからも「鉄人」や「青い目の侍」と称されるようになりました。
しかし、そんな絶頂期の真っ只中であった2000年8月17日にアンディーは白血病であることを打ち明け、その僅か一週間後にあまりにも突然すぎる死を迎えます。葬儀は本人の希望により日本で営まれ、遺骨はスイスで納骨されましたが、自身の母国であるスイスよりもむしろ日本で国民的な人気を誇っていたことを踏まえ、分骨という形で京都の芳春院にも墓が建てられました。
日本で功績を残したスイス人に関する話題は如何でしたか?今回ご紹介した3名は生きた時代も活動範囲もそれぞれ異なりますが、何れも日本に貢献した存在でした。まさかとは思いますが、皆様の中には名前を聞いたことがあっても、それらがスイス人であったことを知らなかった方もいるのではないでしょうか?そういうこともあろうかと思い、今回は正しい認識を身に着けていただくためにもあえて代表的な人物を挙げさせていただきました。しかし、日本で活躍したスイス人は他にもたくさんいますので、また機会があれば是非本ブログでそれらをご紹介させていただきたいと存じます。したがって、今後もご期待ください。
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
時計職人 | Uhrenmacher
(ウーレンマッハー) |
Uhremacher
(ウーレマッヘル) |
公使 | Gesandter
(ゲサンター) |
Gsandte
(クサンテ) |
戦艦 | Kriegsschiff
(クリークスシフ) |
Chriägsschiff
(フリエクスシフ) |
小国家 | Kleinstaat
(クラインシュタート) |
Chliistaat
(フリーシュタート) |
鏡 | Spiegel
(シュピーゲル) |
Schpiägel
(シュピエゲル) |
病院 | Krankenhaus
(クランケンハウス) |
Schpital
(シュピタール) |
写真 | Foto
(フォト) |
Foti
(フォティ) |
帰還 | Heimkehr
(ハイムケーア) |
Heimcheer
(ハイムヘール) |
選手権 | Meisterschaft
(マイスターシャフト) |
Meischterschaft
(マイシュテルシャフト) |
成績 | Leistung
(ライストゥング) |
Leischtig
(ライシュティク) |
参考ホームページ
スイス歴史辞典:エーメ・アンベール=ドロー
https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/004537/2008-11-24/
チューリッヒ大学オープンリポジトリアーカイブ:「エーメ・アンベール ブルジョアの価値観と幕末期の日本」
https://www.zora.uzh.ch/id/eprint/126123/1/10_1515_asia-2015-0011.pdf
スイス歴史辞典:マルセル・ジュノー
https://hls-dhs-dss.ch/de/articles/048886/2005-11-22/
スイス放送協会:「スイスから広島にやってきた善きサマリア人」
https://www.swissinfo.ch/ger/der-schweizer-samariter-von-hiroshima/4654838
アンディー・フグオフィシャルサイト
スイス放送協会:「キックボクシング世界王者のアンディー・フグが東京にて白血病で他界」
https://www.swissinfo.ch/ger/kickbox-weltmeister-andy-hug-in-tokio-an-leukaemie-gestorben/1625628
スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
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