スイス建国の英雄ウィルヘルム・テル
目次
お久しぶりです。いつもお世話になっていますBireweggeです。
皆様はウィルヘルム・テル(Wilhelm Tell)という名前を聞いたことがありますか?
もちろん聞いたことがあるという方もいれば、「誰だったっけ?」と、名前だけ何となく記憶に残っている方や全く知らない人もいるでしょう。スイス人の中では当然ながら知らない人はいませんが、それはスイスの建国の主役であると言っても過言ではない存在だからです。
ここで、「え?ウィルヘルム・テルってスイス人だったの?」と思った方もいるのではないでしょうか?そのような疑問を解消するためにも、今回はスイス建国の父と称されるウィルヘルム・テルを詳しくご紹介させていただきたいと思います。
平和な暮らしを脅かした暴君に復讐したクロスボウの名手
まず、ウィルヘルム・テルが一体どのような人物だったのかについてご紹介します。
神聖ローマ帝国によって自治権が与えられたウーリ州(Kanton Uri)で狩猟人として生計を立てていた誠実な一市民であるウィルヘルム・テルはある日、息子を連れてウーリの中心都市アルトドルフ(Altdorf)を訪れました。
町の中央広場にはその地を支配していた代官ゲスラー(Gessler)が棒の上に帽子を飾り、市民の忠誠の証として、帽子の前を通る全ての人がお辞儀をするよう強制していました。
しかし、ウィルヘルム・テルはその帽子を無視して先を急ごうとしたため、その場で捕らえられることになったのです。
すぐさま現場に駆け付けたゲスラーは、テルがクロスボウを持っていることに気付き、自身の息子の頭にリンゴを置いて、それを見事当てることができれば、その腕に免じてテルを自由にすると約束しました。
誰もが「何て残酷なことを要求するんだ」と思う中、テルは言われるがまま、息子の頭の上にリンゴを置き、それをクロスボウの矢で見事射抜きます。
ゲスラーはテルの腕を称える一方、もう1本の矢を準備していたことを目にし、テルに何故2本の矢を準備したかを聞きました。
テルは「もし、失敗して息子に当たっていれば、その場で貴様を殺すためにもう一本の矢を準備しておいた。」と回答します。
それを耳にしたゲスラーは怒りのあまり、テルを自由にするどころか、彼に終身刑を言い渡し、牢獄へ連行させます。牢獄へ向かう途中、テルを乗せた船は嵐に合い、船内が混乱した隙をついて、テルは沿岸部の岩に飛び移って逃亡します。
その後、テルはゲスラーが必ず通る山道で待ち伏せし、クロスボウでゲスラーを暗殺します。
この出来事をきっかけに、帝国からの独立を計画していたアイトゲノッセン一同は周辺地域の他の代官所を攻め初め、帝国による支配に終止符を打つことになります。
スイスを象徴する国民的英雄
このように、ウィルヘルム・テルに関するお話は平和な庶民の生活を脅かし、我が子までも危険にさらした代官に対する復讐劇ですが、テルが引き起こした事件によって以前から不満を抱いていた民衆にも火が付いて独立運動が一気に加速することになったのです。
したがって、テルは反逆者でありながらも自由のために戦った解放者の象徴とされ、彼の行動はスイス連邦(アイトゲノッセンシャフト)の成立に繋がる引き金にもなったことからスイスの国民的英雄でもあります。
それ故、ウィルヘルム・テルはスイス人の間で幅広く愛されており、テルに因んだものも数多く存在します。
例えば、テルゆかりの地であるウーリ州にはチャペル、ホテル、レストランといった様々な施設の他、トレッキングコースなどあらゆるものにテルの名前が使用されています。
しかし、それらはテルの出身地であるウーリ州に限らず、スイスのフランス語圏やイタリア語圏を含むスイス全国の都市にもテルをモチーフにした記念碑、噴水等が建っており、ドイツの首都であるベルリンやアメリカのニューヨーク州など国外にも記念碑が存在するほどです。
また、スイス製で一定の品質を有していることを証明するために商品に付与される「SWISS MADE」のレーベルを初め、スイスではテルが愛用していたクロスボウをロゴに入れている企業や団体を頻繁に目にします。
さらに、1922年以来使用されている5フラン貨幣の裏面にもテルの肖像が描かれています。
因みに、スイスフランの貨幣に関しては5フラン、2フラン、1フラン、50ラッペン、20ラッペン、10ラッペンならびに5ラッペンの計7種類が存在し、その内の6つの裏面にはスイスを擬人化した女神が写っているのですが、最大のサイズを誇る5フラン貨幣のみ異なるモチーフであるテルが描かれています。
正確にはフードを被った牧人で、それがテルである根拠はないのですが、スイス人の多くはその人物がテルであるとの認識を持っています。
実話か伝説か?
そんなスイス人にとって偉大な存在であるテルですが、その名前がスイスを超えて世界的に知られるようになったのは、ゲーテの親友だったことでも有名なドイツの詩人フリードリヒ・シラー(Friedrich Schiller)による同名の戯曲の影響が大きいと言えます。
この1804年に出版された作品はシラーが一度も現地を訪れることなく歴史資料や言い伝えを基に書き上げたものとされています。
したがって、ウィルヘルム・テルはスイスに古くから語り継がれてきた昔話なのです。テルに関する最古の記録文書は1472年の「サルネンの白い本」(Weisses Buch von Sarnen)で、その資料は当時のオブヴァルデン州(Kanton Obwalden)が保存目的で重要な公文書を書き写したまとめ本です。
中にはアイトゲノッセンシャフトの誓約書も含まれており、歴史資料としての信憑性が極めて高いことから、シラーもその内容を参考にしたと言われています。
とはいえ、作品の舞台となったそれぞれの場所は現在の地名と一致する一方、ウィルヘルム・テルが実在した証拠は一切存在せず、当時にゲスラーやテルなどの苗字を持つ人物がいたことすら確認されていません。
そのような事実を踏まえて、歴史学者の間ではウィルヘルム・テルが伝説に過ぎないとの意見が強いのですが、スイス人の多くはそのような歴史的根拠を求めていません。
それは、テルが仮に想像上の人物であったとしても、テルのように帝国の支配に不満を抱いていた人は確実にいましたし、例え代官の暗殺事件がなかったとしても同時期にアイトゲノッセンが帝国からの独立を果たしたのも事実だからです。
したがって、テルは当時のスイス人を象徴する存在であり、彼の行動はスイスの建国に貢献した多くの人々の一例として語り継がれてきたのではないかと思われています。
ウィルヘルム・テルに関するお話は如何でしたか?
ご説明したように、スイス人はテルを解放軍のリーダーと認識していることが多いのですが、人によっては暗殺犯を英雄視するのに抵抗がある方もいて、ドイツの旧ナチス政権ではテルについてクーデターを引き起こした反逆者の象徴と捉える意見もありました。
もちろん、意見は人それぞれでとやかく言うつもりはございませんが、ウィルヘルム・テルのような人物無くして、スイスの建国はありえなかったとも言えるほど偉大な存在であることをご理解いただければ幸いです。
また、シラーの戯曲以外にもテルを題材にした小説を初め、舞台やミュージカル、オペラなどの関連作品が多数ありますので、今回の記事をきっかけに、シラーの名作を読んでみたり、ウィルヘルム・テルの演劇を見に行ったりすることを是非ご検討してみてください。
では
Bis zum nöchschte mal!
Birewegge
今回の対訳用語集
日本語 | 標準ドイツ語 | スイスドイツ語 |
疑問 | Frage
(フラーゲ) |
Fraag
(フラーク) |
記憶 | Erinnerung
(エアインネルング) |
Erinnerig
(エリンネリク) |
帽子 | Hut
(フート) |
Huet
(フエト) |
クロスボウ | Armbrust
(アームブルスト) |
Armbruscht
(アルムブルシュト) |
リンゴ | Apfel
(アップフェル) |
Öpfel
(エップフェル) |
矢 | Pfeil
(プファイル) |
Pfiil
(プフィール) |
不満 | Unzufriedenheit
(ウンツフリーデンハイト) |
Unzfrideheit
(ウンツフリデハイト) |
昔話 | Märchen
(メルヘン) |
Märli
(メルヘン) |
例 | Beispiel
(バイシュピール) |
Biispill
(ビーシュピル) |
行動 | Verhalten
(フェアハルテン) |
Verhalte
(フェルハルテ) |
参考ホームページ
- ウーリ観光庁オフィシャルサイト:「ウィルヘルム・テルとは誰なのか?」
- スイス文化財保護協会:「ウーリ州におけるウィルヘルム・テルに因んだ記念碑」
- ワイマール市フリードリヒ・シラー資料館:「ウィルヘルム・テル」
スイス生まれスイス育ち。チューリッヒ大学卒業後、日本を訪れた際に心を打たれ、日本に移住。趣味は観光地巡りとグルメツアー。好きな食べ物はラーメンとスイーツ。「ちょっと知りたいスイス」のブログを担当することになり、スイスの魅力をお伝えできればと思っておりますので皆様のご感想やご意見などをいただければ嬉しいです。
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