ナミビアとドイツ
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今日、ドイツ語を公用語としている国々は、オーストリア、スイス、ルクセンブルク、ベルギー、リヒテンシュタイン、そしてドイツの6ヵ国ですが、南西アフリカに位置するナミビアもドイツ語を公用語としていた時代があります。これはナミビアがかつてドイツの植民地であったことによるものですが、今日でもナミビアとドイツの間には、特別な関係があるようです。
ドイツによる植民地支配、ドイツ人入植者
1884年から1914年まで、ナミビアは「ドイツ領南西アフリカ」と称され、ドイツの植民地支配を受けていました。その後は、南アフリカによって占領支配されていましたが、独立戦争を経て、1990年にナミビア共和国として独立を果たしました。ドイツが支配下においたのは30年間ですが、ドイツ語の地名や通りの名前が今日でも見られ、首都ウィントフックや、中部大西洋岸の港町スワコプムンド、南部リューデリッツではドイツ統治時代の街並みや建築物が残っています。
植民地時代の19世紀後半、南西アフリカ(当時)の中部と南部には多くのドイツ人入植者が多く送り込まれ、ドイツ人が多数移住した唯一のドイツ植民地であったとのことです。1913年には、白人の全人口約1万4千人のうち、ドイツ人入植者は1万2千人にものぼりましたが、第一次大戦での敗北により、ドイツ人官僚、植民地軍は国外退去となり、白人社会維持のために残留を許可された一般のドイツ人7000人も、ドイツ国籍をはく奪され、ドイツ系南アフリカ人として生きることとなりました。ドイツ系ナミビア人は、今日ではナミビアの全人口211万人(2011年国勢調査)の約1%を占めており、ドイツ語を母語としています。
独立を果たした1990年にナミビアでの公用語は英語に制定され、ドイツ語話者の割合も数字上では多くありませんが、最近では第二言語や外国語科目としてドイツ語を履修する生徒も増えており、ドイツ本国からの支援もあるため、ドイツ語を学習する社会的・経済的な意味合いは小さくないようです。首都には小学校から高等部まで一貫してドイツ語教育を行う私立校も存在し、一年長く修学し、卒業試験に合格すれば、ドイツの大学へ入学する資格も与えられます。
また、「アルゲマイネ・ツァイトゥング」というドイツ語新聞も発行されており、植民地時代が終わってから100年以上が経ちますが、ナミビア社会におけるドイツという国の存在感を見逃すことはできないようです。
植民地時代の傷痕
ドイツ文化が、ナミビアのひとつの特徴ともなっていることも事実ですが、ドイツ植民地時代に受けた圧政や支配に関する賠償は、今日でもまだ解消されるには至っていません。
1904年から1908年にかけて、反植民地蜂起への鎮圧のため、ドイツ軍はヘレロ人とナマ人の虐殺を行い、最大8万人が犠牲となりました。ドイツ側は2004年に初めて公式に謝罪を行い、ナミビアへの開発援助もしてきました。しかし、虐殺行為に関する賠償問題は難航しており、ナミビアは、今年の8月には、ドイツ側が賠償ではなく「傷の癒し」と呼んでいる事に言及し、ドイツ側の賠償案を退けました。また、首都の一等地にあったドイツ帝国軍の活躍を記念する「騎士の像」は、ドイツ系住民のシンボルでもありましたが、こちらも撤去されています。
アフリカ、ナミビアに残るドイツ植民地時代の記憶とドイツ文化の痕跡。日本からは、なかなか知ることのできないドイツの側面がまだまだあるようです。
参考HP
参考文献
- 水野一晴・永原陽子編 『ナミビアを知るための53章』明石書店 2016
これまで【日本人からみると不思議なドイツ事情】、【ものづくりの国ドイツ】を担当してまいりました、HHです。京都生まれ。ドイツ・フライブルク大学卒。留学中に得た経験をもとに、独自のアンテナを張って様々な側面からみたドイツをお伝えしていきたいと思います!皆さまのドイツ文化に関する興味・関心、ブログの感想もぜひ聞かせて下さいね。
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