ドイツ語圏の国々-イタリア・南チロル編
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ドイツ周辺国の国々でドイツ語が公用語となっている国々は、スイス、オーストリア、ルクセンブルク、ベルギーなどがありますが、実はイタリアにもドイツ語を公用語としている地域があります。人口の70%がドイツ語話者であるイタリア北東部の南チロルには、複雑な歴史的背景のもとに、複数言語が公用語とされています。
イタリアの中のドイツ語圏
オーストリアとイタリアにまたがるアルプス山脈東部に位置するチロル地方は、オーストリア側に位置する北チロルと東チロル、イタリア側の南チロルと3つの地方に分かれています。元来「チロル」という名前は、現・南チロルの都市、メランに中世のチロル伯が居城していたチロル城に由来しています。
そして、このイタリア側の南チロルというのが、イタリア北東部に位置するトレンティーノ=アルト・アディジェ州(南チロル自治州)であり、イタリア内の特別自治州のひとつにあたります。
この州は北のボルツァーノ自治県と南のトレント自治県から成り立っており、南チロルというのはこのボルツァーノ自治県の領域を指しています。この地域の公用語はイタリア語、ドイツ語、ラディン語(ロマンス語派レト・ロマン語に属するアルプス先住民族の言語、ドロミテ語ともいわれる)の3か国語が併用されています。ドイツ語話者は70%にもおよび、公文書、教育、メディアは標準ドイツ語が使用されています。
さて、なぜこの地域がイタリアに属しながら複数言語を公用語としているのか―それは、近代から現代にかけての歴史的背景に理由があります。
度重なる領土奪還、イタリアの同化政策
チロル地方は、中世から近代にかけてハプスブルク家の所領の時代、バイエルン王国の割譲そしてナポレオン戦争を経て、1810年にイタリア王国へと譲渡されたのち、ナポレオンの没後に再びオーストリア帝国へと復帰しました。しかし、第一次大戦後、サンジェルマン条約により、北・東チロルはオーストリアへ、南チロルはイタリアへと再び割譲されてしまいました。イタリアのファシストの政権下では、イタリア語の公用化、ボーツェン南部への工業地域建設、イタリア人の移民推進、ドイツ語およびラディン語集団の国籍選択といった政策により、南チロルのドイツ語話者集団は抑圧されていました。
このイタリアの同化政策は、ドイツ語話者集団とイタリア語話者集団の間に決定的な軋轢を生みだし、第二次世界大戦後から今日に至るまで、数々の問題が未だ課題として残っているようです。ドイツ語話者集団は、自身の自治権を求める運動や、イタリア国家からの分離と北、南、東チロルの統一を要求する団体(Südtiroler Schützenband)を1958 年に結成して、地域の伝統とアイデンティティを守る運動を行っています。
2007年には、イタリアのとあるマーケティング会社が、南チロルがイタリアであると強調したプロモーションを行ったことにより住民たちからの反発が起き、„Südtirol ist nicht Italien“(南チロルはイタリアではない)と書かれた看板800枚が町中に提示されたという騒動もありました。
今日でも南チロルのイタリア語・ドイツ語話者集団間には壁が残っているようですが、共存も目指されています。イタリアにドイツ語圏があるのか、ドイツ語圏がイタリアの統治となってしまったのか、注意が必要な見解です。様々な国々が隣り合うヨーロッパの歴史性は奥深いですね。
参考HP
これまで【日本人からみると不思議なドイツ事情】、【ものづくりの国ドイツ】を担当してまいりました、HHです。京都生まれ。ドイツ・フライブルク大学卒。留学中に得た経験をもとに、独自のアンテナを張って様々な側面からみたドイツをお伝えしていきたいと思います!皆さまのドイツ文化に関する興味・関心、ブログの感想もぜひ聞かせて下さいね。
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